(長編童話)ダンボールの野良猫(十八・一)
(十八・一)検査
ところが歌い切ったところで、またもや呼吸困難。しかも今度はそのまま意識朦朧、ふらふらふらーっとバランスを崩して、ノラ子はステージの床にばたっと倒れ込んだ。
「ノラ子ーーっ」
響子の叫びを、歓声から悲鳴へと変わった大観衆の声が飲み込んだ。騒然とする中、響子がノラ子の横へ駆け寄り、真理は直ぐに救急車を呼んだ。
「ノラ子、ノラ子、ノラ子ーーっ」
観衆の悲鳴、喧騒が続く中、ピーポーピーポーピーポー……と救急車が到着。迅速にノラ子を担架で運ぶと、付き添いの響子と共にノラ子を乗せた救急車は武道館を後にした。コンサートは歌姫不在のまま終了を告げるも、興奮冷めやらぬ客たちのアンコールは鳴り止まない。ノラ子の無事を祈って『ダンボールの野良猫』の大合唱がいつ終わるともなく続いた。
ピーポーピーポーピーポー……。救急車の中では、ノラ子が意識を取り戻す。
「ママ、ここ何処?」
「ノラ子、良かった。救急車の中よ」
「じゃ、コンサートは」
「大丈夫。だってあんた、最後まで歌い切ったじゃない」
「そうだっけ」
微かに目を開き、笑みを浮かべるノラ子。
「ごめんね、ママ。こんな、なっちゃって」
「いいから、ノラ子。一気に疲れが出て来たのよ。あんた、ずっと頑張って来たから、そんな細い体で」
響子の瞼に、じわーっと涙が滲む。
「ママ」
ぐっとその手を握り締めるノラ子の手は、けれど火傷しそうな程熱かった。
「大丈夫だとは思けど、一遍ちゃんと診てもらおう、お医者さんに」
「はーい」
「何も心配しないで。病院着くまで、ちょっと寝てなさいよ、ノラ子」
ピーポーピーポーピーポー……。目を瞑るノラ子の顔を、じっと見守る響子だった。
救急車が着いた場所は、最寄りの赤十字病院。早速検査。担当したのは日赤武道館前センター、内科の若き名医と誉れも高き、早川義男(四十歳)。しかしその診断結果は、衝撃そのものという内容だった。
その夜は一晩ノラ子を病院のベッドに寝かせ、翌朝検査結果について、響子はDr早川と話し合った。
症状自体は、酸素欠乏症による意識不明。しかしではなぜ、酸欠に陥ったか。
「閉め切ったコンサート会場で、歌って踊って興奮したから、なんじゃないんですか」
「勿論、そうです。しかしそればかりだったら、歌手なんかみんな、酸欠でぶっ倒れちゃってますよ」
「それもそうね。じゃノラ子の場合、何か他に特別な原因が?」
「ええ、実はそうなんですよ。まあ、ちょっとこのレントゲン写真を、御覧下さい」
そう言って早川が見せたのは、さっき撮影したばかりのノラ子のレントゲン写真。そしてそれにて、すべては一目瞭然。ノラ子が倒れるのも、無理はないというもの。
「お分かりですか、これがノラ子さんの肺」
「えっ、まさか」
早川が指し示すレントゲン写真の場所を見た響子は、我が目を疑い、思わず絶句。それもその筈。ノラ子の肺はなんと左右両方とも、成人女性のそれに比べ、圧倒的に小さかったのである。
「何、これ」
「ちょうど、成猫の肺のサイズ位でしょうか」
「せいびょう、ですか」
「大人の猫ですよ」
「ああ、猫の肺位の大きさってこと?」
「そうです」
「詳しいのね、先生」
「はい。肺に関しては、ちょっとした権威です」
ありゃありゃ。自分で言うか、早川の旦那。
「成る程、って納得してる場合じゃなくて。よくこんな肺で、今迄生きてこれたわね、この子」
ベッドですやすやと眠るノラ子を、しげしげと見詰める響子。
「そうなんですよ。よくまあ今日まで、歌ったり踊ったりしてこれたなあと。嘘と言うか、もしこれが事実なら」
「事実です」
響子は、きっぱりと頷く。
「そうでしょう?ですからこれは、奇蹟、と言うより他にありません。はい」
奇蹟。響子と早川のふたりは見つめ合い沈黙し、ため息を吐く。響子としたら、かわいいノラ子の為、可能ならどんなことをしてでも完治させて上げたい。根本的に治せるものなら、治して欲しい。
「では、どうすれば」
藁をもつかむ思いで、響子が問う。しかし早川の顔は、冴えない。
「残念ながら、先天性のものですから」
「じゃ治らないの?ねえ、先生」
声を上擦らせる響子。
「ですから、治るとか治らないとかの、問題じゃないんですよ、おかあさん」
おかあさん。そうよ、わたしはノラ子の母親。親として、何とかして上げなきゃ。
「日進月歩の医学ではありますが、現在の所まだ人類は、肺を大きくする技術の発見にまでは至っておらんのです、はい」
「そこを何とか、お願いします。何ならわたしの肺と、とっ換えてもらったって構いませんから」
「肺の移植ということですか。うーん、残念ながら現段階では、まだ実施不可能です」
あらら。響子は落胆し思い詰めたように、病室の床を見詰めるばかり。
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