(小説)交響曲第五番(五・二)
(五・二)第五ラウンド・30秒
春になると仕事が忙しいのか、港電機で働き出した紀ちゃんと顔を会わす機会はなかった。しかし半年が過ぎ、秋からそして冬が訪れると、仕事にも慣れたのか紀ちゃんは月一回自分が林屋に来た時、顔を見せるようになった。そして自分が林屋を出ると、決まって後ろから付いて来た。
「昇くん、一緒に歩いてもいい」
「ああ、全然いいよ」
社会人になって化粧を覚えたせいか、以前とは見違える程、紀ちゃんは綺麗になっていた。ファッションも都会的に洗練されてお洒落だし、香水もほんのりと甘く匂った。それに世の中に出て自信が付いたというのか、以前より確かに大人になったように思えてならなかった。会社では飲み会があるから酒も飲めるようになった、と言うし、付き合いで同僚と渋谷や新宿、六本木界隈にも遊びに行くらしい。比べて自分ときたら、なんとも情けない。相変わらずドヤと工事現場の往復の日々。判で押したように単調で地味な自分の生活とそして青春が、ただただ恥ずかしくてならなかった。
「昇くん。わたしね、昨夜飲み会で会社の人に、デートに誘われちゃった」
デート。
「ええっ」
頬を紅潮させ、まんざらでもなさそうな紀ちゃんの様子に、自分は動揺を隠し切れなかった。
「会社の人に」
「うん」
「どんな人」
紀ちゃんによると、相手は西と言う大卒の同期の男だと言う。体格が良く背も高いが、どちらかと言うと大人しく地味で真面目、おっとりしたお坊ちゃまタイプであるらしい。
「それで、どうしたの」
「断った」
その言葉に、自分は安堵していた。そしてそんな自分に、はっとした。
「でも、わたしも見習わなきゃって思っちゃった」
「何を」
「だから、西さんの、積極性」
「積極性」
「うん」
「どういうこと」
「だから、これからはもっとわたしも、自分の気持ちに正直に、何事も積極的に行動しなきゃなあってこと。だってわたしの人生だもん。他人がどう思おうが、たとえ親が反対しようが、そんなこと気にしない、気にしない。でなきゃ、いつかわたし絶対に後悔する、そんな気がするの」
親が反対しようがって、紀ちゃん。どきどき、どきどきっ……。自分は心臓の鼓動が高鳴るのを覚えた。紀ちゃんは頬を赤らめながら、俯いた。けれど直ぐに顔を上げ言った。
「ねえ、昇くん。昇くんは、アパートに引っ越す気ないの」
アパート。紀ちゃんの突然の問いに、自分は面食らった。
「アパート……。ああ、まったくねえな、そんなもん」
「そんなもんって、どうして。いつかは引っ越したいって、思わない」
「いいや、全然」
「じゃ昇くんは、一生ドヤで暮らしていくつもり」
「ああ、そのつもりだけど。だってアパートなんて、借りるとなったらいろいろと面倒なんだろ」
「面倒。ああ、確かにそうね。保証人も必要だし」
「保証人。ああ、そうだよ」
「でも、保証人だったらわたしが成ってあげてもいいわよ。これでも一応社会人だし」
「いいよ」
「どうして、遠慮しないで」
「いいの。紀ちゃんの世話になる訳にゃ、いかねんだから」
でも今日の紀ちゃんは諦めなかった。
「どうして。アパート借りればいいじゃない」
「いいから、いいから。俺は今のまんまで全然、満足してんだよ」
自分は思わず語気を強めた。ところが紀ちゃんは、それでもしつこく食い下がって来た。
「駄目」
「なんで」
「だって。今のままじゃ、結婚も出来ないじゃない」
「結婚」
紀ちゃんの顔はまっ赤で、しかも真面目そのものだった。
「まさか。俺そんなの、する気ないから」
「そんなのって。じゃ昇くんは、一生結婚しないつもりなの、一生独身」
「ああ、決まってんだろ。俺がそんなの、する訳ねえじゃん」
自分は軽く鼻で笑って見せた。
「昇くん」
けれど紀ちゃんは、じっと自分を見詰めていた。
「やっぱり、そうなんだ」
そして紀ちゃんはやっと、大人しくなった。代わりにひとり言のようにため息混じり、紀ちゃんは小さく呟いた。
「だったらわたしも、ずっと独身でいようかなあ」
えっ。
自分はその時、あの夜のことを思い出した。紀ちゃんと初めて東京の雪を見た、あの晩のことを。自分が十五で、紀ちゃんがまだ小学生だった。雪を見て泣いている自分に、紀ちゃんはこう言って慰めてくれた。
「……わたし昇くんの、お嫁さんになってあげる……」
昇くんのお嫁さんに。やばい。自分はその時確信した。やっぱり和田さんが言った通り、紀ちゃんは、自分のことを……。
お風呂の子。小学校の時、机に落書きされた文字が、脳裏に甦った。権田川の背中を包丁で刺した瞬間の手の感触や、福寿荘で男と情事に耽る幸子の淫らな声や、泪橋の厚化粧したお峰の笑い顔や、留萌の花街の侘しいネオンの灯りなんかが、次々と甦って来た。それらの記憶がそして、自分の気持ちを暗くさせた。
駄目なんだよ、紀ちゃん、自分は。自分なんか、駄目なんだよ、本当に。こんな奴を好きになんかなったって、幸せになんか、絶対なれないんだから……。自分は紀ちゃんに向かって、そう叫びたかった。けれど声にはならなかった。
「昇くん、星、きれいね」
「えっ」
紀ちゃんに言われ、自分は空を見上げた。
「ああ、そうだな」
「わたしね、小さい頃から、あの星が好きなの」
「どれ」
紀ちゃんが指差す方角を見上げた。紀ちゃんの息も自分のそれもまっ白になって、その星へと昇っていった。
「ああ、凄くおっきい星だね」
「オリオン座って言うの」
「オリオン座か。ガキん頃、聞いたことある」
それまでの会話を忘れ、しばし夜空を眺めた後、その夜は紀ちゃんと別れた。
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