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(小説)交響曲第五番(四・一)

(四・一)第四楽章アダージェット

 紀ちゃんは覚えているかい。初めてふたりで雪を見た、あの夜のことを。あれはまだ自分が栄養失調で起き上がれず、林屋さんでお世話になっていた冬のことだった。紀ちゃんにも随分介抱してもらった。
 お粥を作ってくれたり、夢にうなされる自分を心配して枕元で見守ってくれたり。敬七さん、玉子さんには話せなかったことも、まだ小学生の紀ちゃんには素直に正直に話すことが出来た。
 あの晩もそうだった。
「昇くん」
 自分が寝ている部屋にこっそり忍び込んで来た紀ちゃんは、囁くように自分の名を、偽名にも関わらずそれが本当の名だと信じて、呼び、起こしてくれた。何事かと目を覚ました自分に、紀ちゃんは窓を指差した。目を凝らすと、暗い窓の向こうに白いものが次から次へと落ちて来るのが見えた。それが粉雪だと、自分は直ぐに分かった。
「初雪」
 紀ちゃんは、にっこりと笑った。
「うん」
「きれいだね」
「うん」
 膝抱え、紀ちゃんと一緒に雪を見ていた。東京で初めて見た雪の、その白さが眩しくて、自分は思わず泣いてしまった。それまでの放浪と野宿の日々、それから留萌の街や幸子のことなんかがいっぺんに浮かんで来たものだから、つい我慢出来ずに、込み上げる涙を抑え切れなかった。幸子と別れ土砂降りの中おんぼろの福寿荘を飛び出したあの夜から、幾度となく泣きそうになったのを、その度泣いちゃいけない、ここで泣いたら負けなんだと、ずっと歯を食い縛って来たのに。
 紀ちゃんは、そんな自分の涙に吃驚していた。吃驚して、自分に向かって、こう言った。頬っぺたをまっ赤にして。
「昇くん、泣かないで。お願い、わたし昇くんの、お嫁さんになってあげるから」
 昇くんのお嫁さんに……。勿論そんなことを紀ちゃんが本気で言ってるなんて、自分は夢にも信じなかった。まさか本当に自分のことを好いていてくれて、将来本気で自分と結婚しようなどと考えているなんて。なぜなら紀ちゃんはまだ小学生だし、こんな何処の馬の骨とも分からない自分なんかを好きになる筈はないし、ただ単に自分を慰めようとして言ってくれているのだと、そう考える方が自然だったから。
 それでも自分は嬉しかった。それでも自分の方は本気で、まだ小学生の紀ちゃんを好きになった。紀ちゃんのような妹がいたらいいなあ、と憧れた。涙を拭った後、だから自分は紀ちゃんに、留萌の話をした。留萌で生まれたことや、留萌が北の寂れた港町であることや、冬になると留萌の街全体が雪に覆われてしまうことを。紀ちゃんは黙って、聴いていてくれた。そんな紀ちゃんの横顔が、自分にはどうしようもなく眩しくてならなかった。自分はまっ暗な闇の中を彷徨うドブネズミで、紀ちゃんはそんな自分の天使、太陽だった。
 だからあの夜は、自分にとって掛け替えのない一夜になった。もしこの世に本当に神様がいるのだとしたら、あの夜と紀ちゃんのあの時の言葉は、自分にとって最大の、最高の神様からのクリスマスプレゼントだと思った。

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