(小説)交響曲第五番(二・三)
(二・三)第二ラウンド・2分
雨の中を、自分の足は留萌港へと向かった。船で逃げようなどと思ったからではない。逃げる前に、留萌を出てゆく前に、どうしてもここに寄りたかったからだ。そして別れを告げたかった。さようなら、を。港に、埠頭に、待合室に、海に、水平線に、潮風に、潮騒に、錆びた漁船の群れ、時化たにおい、ウミネコの鳴く声、野良猫どもに。
けれど土砂降りのせいか、野良猫は最後まで自分の前に一匹として姿を見せなかった。でもその方が良いと思うことにした。姿を見てしまえば、やっぱりどうしても別れが辛くなる。だからただじっと目を瞑り、その波音を耳に刻み付けるように、留萌港の潮騒を幾度となく聴いていた。そして留萌港を後にした。
本当なら風俗街にも寄りたかったが、思い出の泪橋は既になかったし、逃げるのなら少しでも早い方が良いと思い諦めた。ガイコツ、利郎、それから昇のことも頭をよぎったが、あいつらに迷惑が掛かっちゃまずいと、やっぱり会いにゆくのを諦めた。
留萌港から徒歩で留萌駅まで行ったけれど、留萌本線は既に終わっていた。そんなことは最初から分かっていたから、駅周辺で何処か始発まで身を隠しておける場所がないか探した。生憎の雨でもあり、しかし良い場所は見当たらなかった。気ばかりが焦ったが、ふと以前昇から聞いた話を思い出した。それは昇が小学生の時の家出の話で、昇はその時ヒッチハイクで札幌まで出た、と自慢げに話していた。
ヒッチハイクか、よーし。早速実行すべく自分は国道へと歩を進めた。雨の中傘を差しながら藁をも掴む思いで、通過する車に手を上げた。しかし誰も停まってなどくれなかった。あー、駄目だ。絶望的気分で、そのまま国道沿いを歩き続けた。このまま歩いて札幌、果ては函館まで行っても構わないとさえ思っていた。しかしその時一台の大型トラックが、自分の歩いている横に停まった。中から運転手の若い男が話し掛けて来た。
「坊主、何してんだ。独り旅か」
独り旅……。反射的に自分は頷いていた。
「何処まで行くつもりだ。なんなら乗せてってやるぞ」
「いいんですか」
自分は恐る恐る問い返した。
「ああ。俺も学生ん時は、良く独り旅をしたもんだ」
見ると、悪い人ではなさそうだった。と言うか今の自分には、どんな人も善人に見えた。
「行き先は」
「函館まで」
問う男に、思い切って第一希望を告げた。すると運転手は笑った。
「函館、そりゃ遠いなあ。連絡船に乗るのか」
「はい」
また自分は咄嗟に頷いた。運転手はしばし考えている様子だったが、顔を上げた。
「よし坊主、乗りな。そのままじゃ、雨で風邪引くぞ」
言われるまま、助手席に上がり座った。傘とマジソンバッグは足の下に置いた。車内を濡らし申し訳なく思いながら、渡された汗臭いタオルで頭やシャツ、ズボンを拭った。
「石狩、札幌、小樽と寄って、それから函館に行くけど、ま、明日の朝には着くだろ。どうだ、それでいいならこのまま乗ってけ」
自分は、はい、と頷いた。
「お願いします」
「疲れてんのか、もっと元気出せよ。よし、じゃ出発だ」
トラックは、雨の国道二三一号線を走り出した。
運転手は、田村和雄と名乗った。自分は咄嗟に、北野昇と名乗っていた。
「しょう。どんな字だ」
「上昇するの、昇です」
「おお、かっこいいなあ。なんか矢吹丈みたいじゃん」
矢吹丈……、ジョー、昇、矢吹昇。そうだ。もしまた偽名を使わなければならなくなった時は、今度は矢吹昇と名乗ろう。そう決めた。そして雪結保雄という名前と人生は捨て去り、矢吹昇という人間になりきるんだ。
石狩までは石狩湾沿いを走った。しかし真夜中そして続く豪雨の為、窓ガラスに当たる雨粒とまっ暗な海しか見えなかった。疲れの為か、いつのまにか自分は眠った。しかし幸子と権田川の夢に襲われ、はっと目が覚めた。それからは眠れなかったが、目を瞑り眠った振りをしていた。緊張のせいか、空腹も何も感じなかった。ただ警察に捕まるのではないか、田村さんに怪しまれてトラックから降ろされないか、それだけが心配だった。
一度サイレンの音が近付き、そして離れて行った。その時の恐怖と言ったらなかった。その後自分は気を紛らそうと、昇のことを考えた。なぜ急にあいつがヤクザになったのか。もしかしたらあいつにも、何か特別な出来事が突然起こったのかも知れない、正に今夜の自分のように。
そう言えばあいつ、父親がうざくてかなわないといつも漏らしていたなあ。母子家庭と言っても昇の場合死に別れではなく、両親が離婚していた。父親が酔っ払って、いつも母親や昇に暴力を振るう。それが嫌で離婚したそうだが、離婚後も父親は家に頻繁に出入りして母親を殴っていたらしい。困り果てた昇が父親のことで、稲藤会の知り合いに相談に乗ってもらったとか、そんなことも言っていたっけ。どんな相談だったのかまでは聞かなかったけれど。
昇……。今の自分は無性におまえに会いたい。おまえにならすべて、犯した罪、人を殺めたということも話せるし、おまえなら今の自分の気持ちを誰よりも分かってくれる、そんな気がしてならなかった。昇……。
気付くと、トラックは停車していた。自分はいつのまにか、眠っていたらしい。
そこはもう、札幌だった。雨も上がり、と言うか札幌まで移動したから雨が止んだだけで、留萌はまだ土砂降りなのかも知れない。しかしここまで逃げて来てしまった以上、最早あの街のことは何も分からないし、もう帰ることも出来ない。自分は唇を噛み締めた。時刻は日付けが変わり、午前一時を過ぎていた。もう昨夜も昨日になってしまったのかと思うと、すべて嘘のような、夢の中の出来事のように思えてならなかった。しかしここは福寿荘などではなく、確かにヒッチハイクで乗せてもらった長距離トラックの中だった。
運転席に田村さんの姿はなく、代わりに荷台の扉を開け閉めする音が聴こえた。荷物の積み下ろしでもやっているのだろうか。しばらくして田村さんが戻って来たから、自分は咄嗟に寝た振りをした。田村さんは直ぐにエンジンを掛けた。
小樽まで再び石狩湾沿いを走った。矢張り深夜の為、まっ暗な海が横たわっているだけだった。代わりに星空が車窓に広がっていた。またしても自分は眠りに落ちた。
函館に着いたのは、田村さんが言った通り朝だった。朝の光が、そして景色の明るさが眩しかった。
「さあ着いたぞ、昇」
トラックが停車したのは、函館駅前だった。
「あ、ありがとうございます」
自分は幸子の財布から千円札を取り出し、田村さんに渡そうとした。しかし拒まれた。
「いいんだよ、気持ちだけもらっとくから。じゃな昇、いい旅をしろよ」
「はい、お世話になりました」
後ろ髪引かれる思いで、田村さんのトラックから降りた。トラックを見送った後、傘とマジソンバッグを手に、自分はしばし見知らぬ街角に佇んでいた。見知らぬ人影が行き交うのをぼんやりと見ていた。孤独だった。何から始めればいいのか、分からなかった。そこへ連絡船の汽笛が鳴った。ぼーーっ。そうだ、自分はあの船に乗って、逃げなければ……。どきどき、どきどきっと鼓動が高鳴った。周りに警察官の姿はなく、変な目で見てゆく大人もいなかった。自分は函館駅の切符売り場へと、足を向けた。