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(小説)交響曲第五番(三・一)

(三・一)第三ラウンド

「なんとか逃げ切って。そして元気でね」
 逃亡の間、幸子の声が耳の奥にこびり付いて離れなかった。
 青森桟橋で大雪丸から下船したものの、行く宛てなど有る筈もなかった。時刻は午後二時を過ぎていた。髭も伸び、体は汗臭かった。風呂に入りたい。そして何処か旅館にでも泊まりたいなどと甘いことを考えたが、幸子の金を無駄に使いたくなかった。と言うか逃亡者なのだから、宿泊など出来る筈がない。一体どうしよう。しばし自分は途方に暮れた。
 しかし、どうしようもへったくれもない。身を隠しつつ、このまま東京まで行くしか道はないのだから。東京に行って一からやり直すしかない。ならばさっさと電車で……と焦ったが、今日のところはもうぐったりと疲れていた。何処か人目のつかない場所で今夜は野宿し、明日出発することにしよう。野宿。しかし抵抗はなかった。なぜなら今までだって福寿荘に帰るのが嫌で、いつも留萌港の埠頭で寝ていたのだから。
 差し当たって必要な物を買っておくことにした。良い店はないか、青森駅周辺を歩いた。小さな雑貨屋で、筆記具、懐中電灯、歯ブラシ、髭剃り、石鹸、タオル、小さな鏡を買った。合羽を買い、荷物になる傘は思い切って駅のゴミ箱に捨てた。それから本屋に寄って、時刻表と地図も購入した。気付いたら日暮れが間近に迫っていた。野宿する場所を探す前に、駅前の蕎麦屋で晩飯代わりにきつねうどんの大盛りを食べた。小さい頃から外食と店屋物には慣れていたから、なんともなかった。家庭の味というものを知らない自分だったから。
 青森駅周辺を何度も歩き回り、日没後小さな公園に辿り着いた。見回したが、人影はまったくなかった。よし、今夜はここで野宿だ。そう決めると、公園の一番奥にあるベンチに倒れるように腰を下ろした。蝉がまだ鳴いていた。暑かった。がじっと我慢して、そのまま夜が更けるのをただひたすら待ち続けた。何人かの人が公園に立ち寄り、自分に向かって不審そうな目を向けたが、何も言わず去っていった。警察に連絡しはしないだろうか。本当なら藪の中に身を隠したかったが、蚊や虫に襲われそうで出来なかった。
 無事真夜中になり、公園の水道で頭を洗った。スポーツ刈りだから、洗髪は楽だった。髭も剃ろうかと思ったが、あえて止めた。このまま伸ばしておいた方が年上に見られるのではないか、それに人相も少しは変わるだろうと、淡い期待を抱いて。それから思い切って体を洗った。明日電車に乗るからには少しでも清潔にしておきたかったし、べとべと汗臭かったからすっきりしたかった。人が来ないか警戒しながら、シャツを脱いで上半身を洗ったら直ぐにシャツを着て、次にズボンとパンツを脱いで下半身を洗った。
 ベンチに戻り、マジソンバッグをしっかりと抱き締めながら眠りに落ちた。蚊に刺され何度も起こされたが、無事夜明けを迎えた。朝目が覚めた時には、マジソンバッグを枕にしてベンチに横になっていた。幸子と権田川、昇、そしてあしたのジョーの夢を見た。
 洗顔の後、そのまま公園のベンチで地図と時刻表を広げ、青森駅から東京、具体的には上野駅までの電車の径路を調べた。時刻表のページを折り、乗り継ぐ駅と時刻にボールペンで目印を付けた。乗り換えが多く面倒臭そうだったが、日付けが変わる前に上野駅に着けることが分かった。
 よし。早速自分は青森駅へと向かった。その前に腹ごしらえ。昨晩と同じ駅前の蕎麦屋で、今日はカレーライスを食べた。やっぱり無性に飯が食いたかった。
 奥羽本線で青森から大館へ。大館から花輪線で盛岡まで。盛岡で東北本線に乗り換え一ノ関まで、一ノ関から小牛田まで、小牛田から仙台まで、仙台から福島まで、福島から黒磯まで。続いて黒磯で宇都宮線に乗り換え宇都宮まで、宇都宮からそして上野まで。上野駅に着いた時は、二十三時三十分を過ぎていた。
 一日中電車に揺られていた。ほとんど席に座っていた。昼飯と晩飯は駅弁で済ませ、それ以外の時は顔を伏せじっと眠っていた。或いは寝た振りをしていた。兎に角ばれて警察に捕まらないようにとそればかりを考え、ずっと緊張していた。上野駅に着いて改札を通った時は、それだけに解放感で一杯になった。しかしそれも束の間。何しろ既に真夜中だったし、東京など右も左も分からない自分なのだから、当然ながら直ぐに路頭に迷った。青森の夜同様、取り合えず何処かで野宿しようと、上野駅周辺を彷徨った。上京する若者が上野駅に降り立つ時、期待と不安、そして夢に胸を膨らませるものだけれど、自分には不安と恐怖しかなかった。
 流石は東京、上野。真夜中にも関わらず、駅周辺には多数の人影が見られた。でもこんなに人がいたんじゃ落ち着かない。少しずつ駅から遠ざかり、遂にひとつの公園を見付けた。そこは広々とした大きな公園で、名を風の丘公園と言った。
 風の丘公園のベンチには、まだ先客がいて座れなかった。しかし疲れ切っていた自分は何処でも良いからさっさと腰を下ろしたくて、取り合えずブランコに座った。ギーコギーコとブランコは錆び付いた音で鳴いた。人影が去りベンチが空いたにも関わらず、自分はしばらくブランコに揺られていた。揺られながら、留萌のことを考えていた。かあちゃん、今頃どうしているだろう。とうとう自分は、こんなところまで来てしまった。それもこれもみんな、あの権田川の野郎のせいなんだ。くっそう、あいつさえいなければ……。
 そのままうとうとし出した自分だったが、何か物音がしてはっと目が覚めた。見ると、公園の入口に二人の警官が立っていた。やばい。心臓がどきどきした。汗は汗でも冷や汗にまみれながら、自分は急いでブランコから立ち上がり、公園の奥へと入っていった。桜の木の陰に身を潜め、息を殺し警官たちの様子を窺った。幸い二人は公園を見回した後、直ぐに立ち去った。ふう、助かった。ため息しか出なかった。しかしこれじゃ公園での寝泊りなんて、無理かも知れない。そうも思ったけれど疲れには勝てず、マジソンバッグを抱き締めながら木の下で寝入ってしまった。
 そのまま無事朝を迎えられたかと言えば、そこは東京、決して甘くはなかった。眠りの中で人の気配を感じはっと目を開ければ、そこにはひとりの男。そいつは、自分が抱えるマジソンバックのファスナーに手を掛けているところだった。
「止めろーーっ」
 慌てて飛び起きた。すると男の方も吃驚したのか、とっとと逃げていった。残された自分は恐ろしさに震えた。しかし何処にも逃げ場所などない。公園の灯りが照らすベンチに移って、眠れないまま一晩を明かした。これが東京の初めての夜だった。

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