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(小説)交響曲第五番(五・四)

(五・四)第五ラウンド・1分30秒

 紀ちゃんとの抱擁から数日経った休日の午後、紀ちゃんの父、敬七さんが自分を訪ねて来たのだった。敬七さんがわざわざ会いに来ることなど、自分がこのドヤに入って以来絶無だった。自分は顔を強張らせ、身構えた。
「昇くん、折角の休みの日に押し掛けて来て、済まないね」
 深々とお辞儀する敬七さんを、自分の個室へと通した。大事な話があると言う。狭苦しい部屋の中で正座し、ふたりは向かい合った。みんな出掛けているのか、気持ち悪い程ドヤはしーんと静まり返っていた。
「大事な話と言うのはね、実は、紀子のことなんだよ」
 紀ちゃんのこと。ますます自分は身を固くした。敬七さんにしても、自分と目を合わすでもなく俯きがちだった。
「あいつのことで、どうしても昇くんにお願いしたいことがあってね」
 お願い。
「どんなことですか」
 見当も付かず、自分は不安に駆られた。
「昇くんは気付いているかどうか分からないが、どうやら紀子のやつ、昇くんに惚れてるようなんだよ」
「えっ」
 自分は顔をまっ赤にして、敬七さんを見詰めた。
「しかしだね」
 敬七さんはかぶりを振って続けた。
「悪いけど自分らとしては、きみとの交際に賛成する訳には、いかないんだよ」
「はあ」
 どう答えて良いか分からず、自分は曖昧に答えた。
「何しろ紀子は、自分たちの大事な一人娘だからね」
「そりゃ、そうですよ」
 自分は頷いてみせた。
「ありがとう、分かってもらえて。そこできみへのお願いと言うのは」
「はい」
「今後一切、紀子に近付かないで欲しい、そう言うことなんだよ。昇くん、いや、雪結保雄くん」
「えっ」
 自分は耳を疑った。
 ゆきむすびやすお……。どうして、その名を。そう問いたかったけれど、声にならなかった。
「どうか、この通りだ。頼む」
 そう言うと敬七さんは、床に手をつき深々と頭を下げた。
「実は大変恐縮なんだが、紀子がきみに惚れていると分かった時点で、きみの素性を確かめる為、探偵に調査を依頼したんだよ」
 探偵に調査……。そんな。自分もまたこうべを垂れ、絶句した。
「きみには大変失礼なことだと、充分承知している。しかし紀子の好きな相手がちゃんとした人物かどうか、どうしても知っておきたかったんだ」
「分かってます、敬七さん。もうお願いですから、頭を上げて下さい」
 相変わらず床に手をついたまんまの敬七さんに、自分は懇願した。林屋の敬七さんと玉子さんは、自分の命の恩人なんだ。そんな人が今こうして自分に向かって頭を下げ、大事な一人娘のことで頼んでいる。これではどんなことがあっても、断れない。さっと夢から目が醒めたように、自分は、紀ちゃんへの想いを、諦めた。あきらめた。
「分かりました、敬七さん。もう二度と紀子さんの前には、姿を出しません」
「本当かい」
 それを聴いた敬七さんは、やっと顔を上げ自分を見上げた。
「ありがとう、昇くん」
 部屋のドアを開け、敬七さんを見送った。ドヤの屋根を、晩秋の夕焼けが赤く染めていた。

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