『成瀬は信じた道をいく』あえて“書かない”人物造形
『成瀬は天下をとりにいく』の続編、『成瀬は信じた道をいく』を読みました。前回に引き続き感想を書こうと思うのですが、今回はいかにして成瀬あかりという新時代のヒロインが創造されたのかについて突っ込んで考えてみたいと思います。
とにかくこの物語は成瀬というキャラクターの魅力に尽きるのですが、どうして我々はこんなに惹きつけられるのでしょうか。結論から先に言うと、成瀬には「コンプレックスが無い」からだと思います。
コンプレックス・劣等感というものは、小説の大きなテーマになるわけですが、成瀬はこの部分が無いんですね。他者と比べて自分がどうこうという意識に苛まれない。だから興味の対象に向かって一直線なわけです。通常の人物の内面と比べるとこうなります。
こういうキャラクターを思い付くだけでも凄いですが、具体的にどうやって小説内で描写していくかがキモです。方法としては次の二つの試みがなされていて、共に成功していると思います。
一つは読んですぐにわかるように「他者視点から成瀬を見る」ことです。この小説は語り手が章ごとにコロコロ変わるので、その度に成瀬の性格や行動が相対化されるように構成されています。劣等感を通じたドラマは各章の語り手が引き受けてくれるのですね。
もう一つの方法は「書かないこと」です。書いてしまいそうなことを、あえて書かない。例としては、成瀬の熱中することが「シャボン玉→けん玉→お笑い→髪の毛→かるた→観光大使」と移り変わっていきますが、その心情変化を詳しく書かないんですね。
「他の子がゲームに夢中だった頃、私はけん玉に取り憑かれた」
とか、書かない。あるいは成瀬の台詞として、
「島崎、携帯電話はそんなに便利だろうか。携帯電話を持つことで、人はむしろ不自由になってはいないだろうか」
とか、書かない。
物語の冒頭でも、いきなり「この夏を西武に捧げる」と宣言して行動します。自分が他人よりどれだけ西武を愛しているかとか、書かない。
他者比較・コンプレックスに起因するようなことは徹底して書かない。これが成瀬というキャラクターを特別な存在たらしめている大きな要因だと思います。書くことではなく、書かないことで成り立っている。
唯一、『天下』の最終章だけは成瀬の視点中心で書かれているのですが、そこでも成瀬の人間味はコンプレックス方面の臭いがしないように描かれてるんですね。島崎と別れる不安などが中心になっている。
ついつい、人物の内面ってつらつら書いちゃうじゃないですか。で、書いてると、やっぱり「自分」が出てくるんですね。自分ってのは誰しもコンプレックスの塊ですから、自然と描写に滲み出てしまう。そういう部分を慎重にシャットアウトして形成されたヒロインが成瀬あかりだと思います。
まあ、言うまでもなく、こんな人は現実にはいません。でも、いいんです。だって小説は素敵なウソですから。小説でないと出来ないことだから。
今後『成瀬~』は映画やドラマに確実になると思いますが、小説の中の成瀬あかりは誰のイメージも背負っていないので特別であり続けると思います。成瀬という新ヒロインを発明した小説という分野に底力を感じました!