怪しい人が通る!
引用は昨年のTwitterから。
歴史は繰り返す。
暖かくなってくると、今年ももれなく怪しい人が外に出てくる。
その怪しい人とは私の事だ。
なぜ春になると外に出てしまうのだろう。
花が咲いているからだろうか。
暖かいからだろうか。
決して、浮かれているばかりでもない。
春の私は、いつもそこはかとない焦燥感を抱えている。
そして、気がつけば寝巻きと兼用しているもれなく毛玉付きの室内着という状態のまま、玄関から外へ、はみ出ている。
冬のピンと張り詰めた空気が好きである。
寒いということは緊張しているという状態に繋がる。
その緊張感がたまらない。
寒気が吹きつけ顔の皮膚をビリビリとさせると、何か悪い薬を一発キメたような感じがする。
そのままスウと息を吸い込むと、自分の輪郭がどんどんくっきりと際立っていく。
そのまま夜空を見上げれば瞬く星はいかにも明瞭で、まるで星と自分が呼応しているかのような錯覚を覚える。
共感されたことはほぼ無い。
というか普段の生活でこんな事を言語化しない。
三月に入ればその張り詰めた空気も、一雨ごとに緩んでいく。
私はまだ油断している。
湿気と乾燥の狭間で冬の明瞭な私のままでいると気づいたときには、私の周りの空気だけが緩んでいる。
緊張の緩和で笑いが生まれるという理論があるけど、冬から春への緊張の緩和の瞬間に私は、笑うどころか、ただ油断している。
油断したまま気づいたら春になっている。
焦燥感の正体は、居た堪れなさだ。
私は乗り遅れた自分と春を馴染ませるために、フラフラと外に出ては正気を保つ。
考えてみてほしい。自分の周りに正気を保とうとしている人がいたら、その人は多分正気を失いかけている。
だから、春に誘われ這い出るものは怪しい者とされるのだろう。
そんなこんなで今年も春がきた。
春に体を馴染ませながら、なぜだかずっとドキドキしている。
鶯の声を聞くたびにハッとして
雨の香りを嗅げば胸が苦しく
白木蓮が真っ直ぐに花を咲かせるのを眺めては、涙が出そうである。
始終、動悸が激しい。
焦燥感から外に這い出ることはあれど、この現象は例年にはなかった事だ。
知り合いに豊かな人生経験を持つ素敵なマダムがいる。
先日、マダム行きつけの予約の取れないレストランで食事をした。
毛玉付きの寝巻き兼室内着と、完全なる晴れ着の2種類しか持たない私は、迷うことなく完全なる晴れ着を選び外に出かけた。
久しぶりに出る夜の街は色とりどりの光でキラキラとしており、夜の街というのはいつもクリスマスのようだと思う。
マダムとの実りある会話と共につつがなくコース料理が終わり、デザートが出る段となった。
マダムに、ここ最近の自分の身体に起きた異変を相談してみた。
最近、動悸がおさまらない。
心臓の病気かもしくは更年期障害というやつではないか。
マダムは、上品な所作でデザートを味わいながら、やや哀れっぽい目で私の顔を見た。
そして私の話を一通り聞いた後、一言言った。
あなた、春に恋をしているんじゃない。
ポエティックな表現は時に結論を曖昧にさせる。
私もよく利用するのでその効果は理解しているつもりだ。
しかし理解と判断力は別物でなる。
特に自分事となると判断力は鈍る。
そうか、私は春に恋をしているのか。
赤子の手を捻るがごとく、さすがのマダムだなぁと思う。
一人帰途につきながら、なんとなく良いことが起きたような気がしている。
ふと、その理由を思い出そうとするけど、昨日の私と今日の私は何も変わっていない。
♪「私恋をしている 哀しいくらい
もう隠せない この切なさは
もっと一緒にいたい ふたりでいたい
叶えてほしい 夏の憧れ」
気がつけば、鼻歌を歌っている。
一人だと思って割と大きめに歌っていたが、知らない間に、すぐ後ろを歩いている人がいた。
マスクの下の鼻歌は誰にも聞こえていないと、信じている。
「ふたりでいたい」という歌詞で、我にかえりそうにもなったけど、いちいち反応しないのが中年の図太さであり、ゆくゆくは大人の余裕に繋がるはずだ。
緩んだ空気は心地よい。
冬の遺物だった者が春に恋をしている、
そう思えば、許されるような気もするが、
冷静になってみると、ちょっと気持ち悪いかなとも思う。
※「」内は引用
Scuall 福山雅治 歌詞 作曲
今井美樹のプライドだと思ってたので検索して福山雅治だと知り信じられなくてYouTubeを開いてしまいました。今井美樹は私は今…でした。そしてScuallを歌っている女性は松本英子でした。
※青乃Twitter https://twitter.com/aonokenk