小澤征爾氏著「ボクの音楽武者修行」を読んで
本書は、小澤征爾さんご本人による、指揮者として身を立て始めた頃の「駆け出し」の記録。
巻末の解説で萩元晴彦さんが「まことに比類のない、みずみずしい青春の書である」と称しているが、本当にその通りだと思う。
第三者が編纂したドキュメントでも、成功者の回顧録でもない。
未来に世界的指揮者なることなどまったく知らぬ青年が、大好きな音楽の世界に飛び込み、出会うもの目に映るものに対して考えたこと思ったこと。人生のかかったここぞという勝負所にどのように臨んだのか。
それらを、「駆け出し当時の本人」から聞ける貴重な本である。
24歳の小澤青年は、音楽武者修行を決意し、貨物船に間借りしてヨーロッパに上陸する。偶然知った指揮者コンクールに応募するも、手続き不備で締め切りに間に合わず、それでも方々手を尽くして受験資格を獲得し、結果なんと1位を勝ち取る。これが世界的指揮者セイジ・オザワの原点である…
などと言えるのは今だからであって、当時はここからが修行の始まり。
音楽会の指揮に招かれることもあったが、数々の著名な音楽家の演奏会に足を運び勉強し、巨匠への弟子入り資格を得るためコンクールを受験する。指揮者として「食うむずかしさ」を感じながら、フランス、アメリカ、ドイツへと移り住み、日本に帰国するまでの2年半の日々。
これらが、当時26歳のご本人によって綴られている。駆け出しの頃を、その真っ只中にいるご本人が記録したいわば「リアルタイム配信」。だから、本当にみずみずしい。
才能があるか否か、成功できるか否かなどもろともせず、持てる情熱を肉体にして現実を泳ぎ抜く率直さとまっすぐさに、すがすがしい風が感じられる。心が若くなる一冊だった。
ところで。
私の実家には、母と、小澤征爾さんが並んで写る写真が飾られている。
母は、3人の子どもを産み育て社会に還元した偉大な人物ではあるが、田舎に住む一介の主婦である。
では一体なぜ巨匠と肩を並べているのか。
実は母は、学生時代に本書に出会い、征爾さん(と母は呼ぶ)の音楽に対する熱量と行動力に感動し、以来「追っかけ」をしている筋金入りのファンなのだった。今の言葉にするならば、母の「推し」は小澤征爾なのである。
そんな母が、ある年の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」※で、楽屋にもぐりこみ、本人とお会いして撮っていただいたのがこの写真とのこと。「昔は今ほどセキュリティが厳しくなかったからねぇ」としみじみ振り返っていたが、そのセリフ、一介の主婦ならぬ、一国のスパイの趣がある。恐るべし推し魂。
母に、本書がおもしろかったという話をしたら、「ようこそ!うちには征爾さんの本もアルバムも全部あるわよ。」と嬉々としていた。実家が実は「小澤征爾ミュージアム」だったということも、本書を通じた発見なのだった。
※サイトウ・キネン・フェスティバル松本:小澤征爾氏が師事した齋藤秀雄氏に因み、毎年夏に長野県松本市で開催される音楽祭。本コンサートのために都度編成されるオーケストラを小澤征爾氏が指揮する。2015年に「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に名称変更されています。