読書の罠
ノンフィクションや近代の歴史に関する本を読み終えたら、インターネットで実際の映像を探して視て、読了に酔う自分の鼻をへし折ることにしている。
荒井裕樹氏著「障害者差別を問いなおす」という本を読んだ。この書籍の中に、障害者本人が発起人となって結成された「日本脳性マヒ者協会 青い芝の会」と、バス会社との間で起きた対立が書かれている。この対立は「川崎バス闘争」と呼ばれ、その日、川崎駅前のバスターミナルには車椅子に乗った同会のメンバーが集まりバスの運行を阻止するという抗議運動が行われた。現場は大混乱に陥り、多くの一般乗客は足止め、バス会社社員や警察官による「説得」や「排除」が行われたと綴られている。この場でその闘争の詳細や是非についは触れない。ただその記述からは、障害者の魂の主張と、取っ組み合う人々の激しいやり取りが見えた。
本書を読み終えて、何気なくインターネットで「川崎バス闘争」を検索したら、Youtubeに当時のニュース映像らしきものがあったので視てみた。
その様子は、私の想像を絶していた。
本は、読み手への依存度が高いメディアである。どの本も、言葉と文章を緻密に組み合げ、読者に知識と体感と、読む前とは少し違って見える世界を提供している。だから、読み手は読了に爽快感を得て、自分の成長を錯覚することができる。
でも、本から得たそれらを経験や映像に変換するのは自分である。映画監督的な自分が三流であれば、その映像は三流である。五感全てを刺激するような臨場感ある映像にできる場合もあれば、一枚の静止画程度にしか落とし込めない場合もある。おそらく、よくできた本ほど、三流監督の存在に気づかせない。
「川崎バス闘争」の実際の映像と自分の想像の落差から、読んだだけでいかに「わかった気」になっていたかを思い知った。「百聞は一見に如かず」という言葉が心臓を貫いた。そして依然、私が触れているのはあくまで映像というメディアであり、なお間接的にしか情報を得ていないのだとも思った。
物事を「知る」ことは、実体験を通じてしかかなわない。
小学校、土砂降りの日の帰り道。服も髪もぐしょぐしょで、やけっぱちになり水が流れる側溝に足をつっこんで歩いた。長靴の中に水が入り、足が空気と水に押し返されて、ごぶ、ごぶ、と音を立て、踏み出すたびに一瞬の浮遊感が味わえる。靴下もぐっしょり重く、土臭い水の匂いが気持ち悪いのに、おもしろい。
今年もそろそろ梅雨が来る。長靴の中に水を入れて歩くなんて真似は、もうしない。でも今も、あの足の感触をリアルに思い出すことができる。
情報や知識を得ることがとても簡単な時代になった。でも読んで聞いて視ただけで、身体的経験を得たと錯覚してはいけない。どんなにたくさんの情報と知識を取り入れたとしても、未経験である以上、自分は真には「知らない」のだということを知っておきたい。