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【気軽に悟ろう】唯心円成会伝法講義~会報Enjoh_201612【無能唱元】
気軽に悟ろう……邪気払いには「サトリ」が一番
禅の世界では、「悟り」とは人生の一大事であり、その深遠なる哲理は、一生取り組んでも会得し難いものだなどと言いますけれど、私はそんなご大層なものだとは、どうも考えられません。
「悟る」と「知る」が、どう違うのかといえば、「知る」が単に「未知のことが解る」に対して「悟る」は、いわゆる、灯台もと暗しというやつで、「すぐ身近にあったことに気づく」ということなんです。
もう少し詳しく言うと「それを発見し、かつ理解する」これが「悟る」ということだ、と思います。 だから、悟る素材は沢山あるのです。それは、ごく些細なことから、それこそ人生の一大事に至るまで、さまざまなことに関して、それに気づいたなら、それは全部悟りなんです。
そして禅家では、小さな気づきを、「小悟」大きな発見を「大悟」と呼ぶのであります。
さて、人生における精神的苦痛の多くは、その悩みの実態に気づいていないことによって起こるもので、この姿に気づいた時、悩みは、昼間のお化けのように消えてしまうものです。
精神的苦痛とは、邪気を作り出すもとであり、この邪気が、「病は気から」の気にあたるものです。
「悟る」という行為は、この精神的苦痛を氷解させる効用があるのですから、これは優れた健康法だと捕らえても、一向に差しつかえないものと思います。
精神的苦痛を氷解するとは、悩みからの脱却を意味するものです。これが、解脱というものでしょう。「悟った者」とは、解脱を成し得た者、すなわち悩みを払い捨てた者のことと言えましょう。 では具体的に言って、どうしたら、この「サトリ」を得ることができるのでしょうか?
自分を観察する
まず「サトリ」を私流に定義してみましょう。
それは
「自己の外にある神仏を頼るのをやめて、自己の内にある神性に目覚めることこそ『サトリ』に他ならない。すなわち、頼むべきものは、外にはあらず、自己の内にこそある。しかも、その頼むべきものと、頼まれるべきものは、実に同一人で、ある」
と、こんな具合になると思います。ですから、「サトリ」を求めるという精神的行為は、世の中にある、あらゆる宗教と反対の立場を取るものであり、むしろ、その宗教と対立するものだ、と言って言えないことはない、とも思えます。しかし、それは決して、宗教そのものを否定するものではなく、また、自分は無神論者であろうとするものでもありません。
多くの宗教の特質には、まず「自己放棄」があります。自己意識を捨てて、絶対者(それは神です)に自分自身のすべてを任せてしまおうとするのです。 一方「サトル」という行動は、自己の意識を拡大していって、宇宙創世的意識にまで高めていこう、とするものです。
そのための方法については、次号で、お話します。
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[出典:唯心円成会発行.会報Enjoh 第384号 2016年12月号]
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