この世の正義は、自分の思う正義と違うのではないかと感じることがある。私の正義は、本当にそうなんだろうか、と。
まるでこの前に習った坊っちゃんの世界のように、正義を信じているのは私とそのまわりだけではないのか、と。
本当はそれは私の世界だけで、本当の正義は別にあるのに、それを見ようとしないのではないのだろうか。
そんなことが頭をよぎる。これは「不安」以外のなにものでもない。
“悪”は、己を正義と信じてやまない。悪いことをしているという自覚がなく、周りにも自分が正義だと言いふらし、洗脳する。
その悪の所業にくらくらとする。
あまりにも悪ぶらず、他責的で、全てが私のせいとなっているそこの小さな世界では、まるで私がその場をおびやかす“悪”にでもなっているかのように錯覚させる。
だけど忘れては行けないのだ、あの長い年月で受けた痛みを。心と体がしなびれていくあの絶望感を。
この、私の家族への変わらない愛を。
あの暴力が正義か?違うだろう。あの時の涙はきっと“悪”ではないはずだ。
公共機関が私に耳を傾けを守ってくれようとしたその事実こそ、きっとこれが正義なんだ。
人に言われて傷つくことも増えた。戦っていると色々な意見が飛び交う、それは仕方ない。お互いが正義だと思っているのだから。
私はそれでも、信じてくれる人が信じていてくれたらいい。
世間一般で見てもどうみても悪いのは殴る人間、そして犯罪を犯す人間だ。もちろん、殴ることだって犯罪だ。
小さな声が大きく聴こえる、不安になる、だけど間違っているのかなどと惑わされるな。サイレントマジョリティは、必ず悪がどちらかわかっている。
自分を信じよう。自分を信じることこそが自信を持つということだ。もう怖がらないでいいのだから、周りの正しい人を信じよう。
基軸をぶらすな。悪魔の言葉に負けるな。
悪魔退治まで、もうあと少しだ。
山口葵