ぼくが逃した四度のビジネスチャンス。202303309thu260
6259文字・60min
午前に三千歩、夕方に八千歩。
日に一万歩強、あるく。
それだけでもうヘトヘトだ。
一日は光陰の如し。
マッチングアプリさえできない。
なにかが、やばい気がする。
この時の速さはぼくだけの感覚だろうか? 特殊相対性理論では観測する点で時間の速さが異なる。となるとぼくの心(あるいは脳の回転)は高速(ブラックホール)ということか。
桜は新緑が芽吹く。あとなん度、見られるだろうか。
本題。
人生を半世紀弱も生きると、こんなぼくでもビジネスチャンスは訪れた。
ぼくは四度、訪れた。が四度とも断念した。
一度目 1999年 東京
学生で劇団を主宰していた時。社会人の劇団員でドコモの子会社の社員がいた。彼はぼくにJASRACの下請け話を持ってきた。東京の小劇場は音楽の著作権は無法地帯だ。一曲5000円を徴収するビジネス。やれば独占だが自家撞着だ。日本の演劇文化はジャニーズや劇団四季などの大手公演は別として、小劇場界隈では音源無断使用の暗黙のルールで公演がギリギリ成り立っている状況だ。それを引き受けることは、ぼくは演劇を捨てて、著作権徴収人となって東京(いや全国)のすべての演出家を敵にまわす人生を送ることになる。ぼくが生業として著作権徴収やって日本演劇界が活性化するとは思えない。ただの演劇界の謀反人で吊し上げになる。当たり前だが断った。
二十五年経った現在、著作権徴収ビジネスは存在しないということは、やらなくて正解だったか。
二度目 2010年 ローマ
イタリア時代。ぼくは料理修行という名目でイタリアをまわった。ラツィオ・アングイラーラ(アンティパスト・ドルチェ担当)、トレンティーノ・ロンゾ=キエニス(ホテルの下働き、切り出し、仕込み、皿洗い、タリアテッレ、平うち生麺、鹿、ロバ、馬などのジビエ、ドイツ・ミュンヘンからのビールなど)、ラツィオ・オステリアノーヴァ(セコンドピアッティ=鉄板焼き場、フライヤー、オーブンを担当)、シチリア・カーポドリランド(ほそい乾麺、ペスカトーレなど、基本は切り出しと仕込み作業)、グロセット・セッジアーノ(ホテルの下働き、洗い場、オリーブオイル詰め)、ラクイラ(訳あって日本のスシバー)、ウディネ(バリスタ、離れ小屋の鉄板焼きで焼き栗)、ローマ(自炊)、ラストは上記の最も世話になったトレンティーノ(北イタリア)にて発狂してラゴ・デル・ガルダ(ガルダ湖)のほとりにあるアルコ精神医療センターに三週間の強制入院の末に、強制送還だった。
■ちなみに、このイタリアの一年は小説になる。
実際のぼくは北イタリアで発狂をしたがぼくの物語ではない(発狂した当事者は客観的な小説は書けない)。
ぼくが世話になった日本人コックを斡旋する日本人女性の有名ブローカーは日本のイタリアン料理会のためだと言っていたが、イタリア共和国では料理修行のための職業斡旋は不法行為にあたる。イタリア政府は正規な就業ビザは発行しない。(もちろんどこの国でも料理修行は秘宝滞在が付きまとうが問題は組織された斡旋をやっているかだ。極端な話で言えば武器や臓器や子どもの売買と構造はおなじ)。イタリア共和国は料理目的のビザは発給しない。この手の問題はフランスはもっと厳しい。住み込みの部屋にガサ入れが入って捕まった日本人は強制送還だ。つまり彼女「Mrs.W」はイタリアン(ジャポネーゼ)マフィアだったのだ。ぼくはアジトの大邸宅も知っている。当時八十歳だったからもうこの世にいないかもしれない。だが当時は二十歳の娘はイギリスに留学していた。簡単に説明する。
ぼくは中国の上海で韓国人妻と離婚後に、地元群馬に帰ってイタリアンリストランテの皿洗いをしていた。それから縁(訳)あってイタリア(ラツィオ州)にいるMrs.Wに現金五十万を渡せばイタリアに一年間、料理勉強で居られるという話だ。「縁あっての五十万」だった。ちなみに旅費(航空券)は別だ。
さて、イタリアに渡ってみると、派遣先まで二、三日Mrs.Wの邸宅に滞在することになった。Mrs.Wと現地の日本人スタッフとみんなで食事をするのだが、その時にぼくは壁に貼られたある紙のリストを目撃した。イタリア全土に散らばる日本人コックの名簿だ。数えると六十名いた。
ぼくは「縁あっての五十万」だ。「縁」はコネと考えていい。これは後で知ったことだが「縁がない人」がいた。例えば、ある神戸出身の十九の女は関西の旅行代理店でこのイタリア留学話を知った。彼女は一年間、風俗で体を売って二百五十万円を貯めた。それから彼女は「ああ、これから一年のあいだ私はイタリアで遊べるんだわ」とい思いこんでイタリアにやってきた。元大手商事会社のやり手商社ウーマンだったMrs.Wは日本人コックを全国に散らばる知り合いのリストランテへと斡旋する。だが神戸の女は手に職があるというわけではなかった。Mrs.Wは、神戸の女をフィウミチーノ空港の周りに立つ高層マンションのベビーシッターで派遣させた。神戸の女は半年でノイローゼになって失踪した。彼女だけが二百五十万ではないはずだ。で、ぼくはMrs.Wへの上納金をひとり百万と計算した。六十人で平均すれば、Mrs.Wの年収は六千万円となる。
このネタはいまはぼくが未熟で一本の小説としては書けない。もし書くとしたら相応の取材が必要になるし、先も言ったがヤマがデカくて話が複雑すぎる。
複雑というのは、メインプロットの「イタリアの料理修行(日本人女マフィアのシンジケートの実態)」+サブプロットの「中国人の華僑が世界に散らばる実態」なども含まれる。イタリアと中国の社会問題。ぼくがイタリア各地で出会ったアフリカ系移民(不法滞在者)問題(イタリアの長靴の地図を想像して欲しい。下は地中海だ。その下が貧困国の北アフリカ。そこから密入国者が大勢イタリアにやってくる)。ローマのスラムで知り合ったガンボアの友人は、ぼくが雨の日に「どこで寝てるの?」と聞くと「あそこの木の下だよ」と笑った。スラムでは道を歩いていると「アミーコ!(ともだちよ!)」と開いた手にマリファナを握らせる。買おうかどうか迷っているとブロックの影からシェパード(麻薬犬)と四人の覆面捜査官が現れてヤク中のゴロツキはあっという間に道の石畳の上で羽交締めにされる。まるでハリウッド映画だ。夜の散歩では還暦を過ぎたロシア人の娼婦ふたりとハイタッチ。そのままトンネルを抜けてぼくはポーランド系の立ちんぼがいる広場へ。一番若くて無邪気な十七のデッラと仲良くベンチでご歓談。月夜に小山を見あげるとドラム缶のような影が見える。朝になって確認してみると巨大なズタ袋にコンドームの山。また夜に同じ場所に行くと丘の上の木陰でデッラが中国人に後ろから突かれている。デッラはその仕事の真っ最中に満面の笑みでぼくに手をふる。デッラは恥ずかしそうに丘から降りてくる。250ccのバイクにまたがる胴元の女とスキンヘッドのフランス人が交渉をしている。スキンヘッドのフランス人は振りむきぼくに、
「これ上物のコカインだけど」
「いくら?」
「300ユーロで良いよ。注射のやつだよ」
「どうしようかな〜」
財布を覗くふりをするぼく。
次の日の深夜は満月だった。薄暗い日本でいうハッテンバのようなリブレリア(書店のカフェ)を通りすぎた通りで狂った男が火炎瓶を、当たりかまわず投げまくっていて、ぼくはその男と目が合った。その男に追いかけられる。ぼくは全力疾走で逃げる(イタリアで一番怖かった経験だ)。イタリア最後はそんな日常(スラムだったからね、汗)だった。
で、本題のビジネスチャンスに戻る。
もう帰国(北イタリアでの発狂)まで二ヶ月くらいの2010年の年末。
ぼくは中国人が経営するバールに入り浸っていた。谷(グー)さんは博識だった。いま思えばゲイだったと思う。
「中国の標準語は北京語じゃないの知ってた?」
とグーさんはいう。
「たしかに北京で北京語を習ったけど、語尾は巻き舌だね。だからぼくの中国語も巻き舌だよ」
「日本語の東京語は標準語か?」
とグーさん。
「たしかに、江戸弁だ。べらんめえ調で。日本の東京弁も巻き舌だ」
とぼく。
「中国語の標準はハルビンなんだよ。あそこの人の発音ははっきりとしていて非常に聞き取りやすい。ハルビンをもとにピンインは作られてる」
「へ〜(ガッテン、ガッテン、ガッテン!)」
グーさんはぼくの部屋も斡旋してくれた。五人の中国人と同部屋で月200ユーロ(二万六千円)だ。そこはみな華僑たち。
さらに後で分かったことだが、テルミニ駅近辺のスラムはインド系と中国系とでシマが分かれていて、グーさんが中国人の世話役っぽかった。新宿で言うヤクザのシマ争いがあるように。
さて、ビジネスの話だ。
ぼくはグーさんにこう言われた。
「日本に鉄はないか? 屑鉄でもいい。いま中国は鉄道の線路を敷き詰めるのに必死で鉄が足りない。世界から鉄を買い漁っている。日本に屑鉄でもあればなんでも買う。私と組まないか? 君は通訳でいい」
「で、どれくらいになるのかな? ぼくら二人の手数料は」
「3%だ」
グーさんは計算する。
その3%で日本円で7億円ということだった。ぼくひとりの手取りが3億5千万だ。イタリアに料理修行に来て中国語通訳で儲け話。腰が抜けそうになる。一期一会ってこうなるの?
このビジネス話を説明をすると、温州人らの彼らは中国の初代首相の周恩来がもつ「中国鉄鋼集団」の財閥の一族になる(もちろん谷さんたちは、海外華僑組だから貧しいわけだが、中国人の地縁、血縁は強いものがある)。そこに少しでもチャンスを見出せば出世&ビジネスチャンスがある。
それからぼくは上海時代に知り合った東京の元証券マンにメールで色々と問い合わせる。彼にもビジネスに入ってもらった。ぼくの手取りは確か7,500万になった。それでも破格だったが。彼が調査すると、
「もう日本のどこにも鉄はない。ドイツにも鉄はないそうだ。日本の屑鉄は中国人が言い値で買い漁ってる。中国人がみんな日本国外に持ちだしたらしい。それと私らには鉄を運ぶスキームが必要だ。海運、船、港のスキーム、許可とかそういうものだね」
それで計画はご破産になった。
この話は、客観的な三人称で紡げば社会派小説になる。けどヤマがデカすぎて構造は複雑でいまのぼくでは手に負えない。凄腕のプロの編集者がつきっきりで指導してくれたら書きあがるかもしれないが。
メインプロット(イタリアの料理留学)とサブプロット(中国語で全国の中国人と出会ったりローマのスラム街に住み着いた軌跡など)が混じり合っている。中国人華僑の実態(まずはオーストラリアに一年修行して、それからスペインやドイツやイタリアなどに派遣されるシステムなど)ぼくの取材元の話は温州人の話だ。シンジケートもマルペンサ組(ミラノ組)とフィウミチーノ組(ローマ組)が別れている。
三度目 2011年 ローマ
これもイタリア。おなじ場所で一月違いくらいでほとんどおなじ時期だ。
ぼくはローマのテルミニ駅ちかくのスラム街で自炊生活をしていた。散歩の日々だ。ローマのチェントロ(中心街)は歩き倒した。で、ある日アップルストアで知り合いができた。髭もじゃのピエロさん。サンタクロースのような顔のおじさんだ。
「セナ、君おもしろいなあ、明日、ぼくの仕事場に遊びにおいでよ」
とピエロさんはいう。
「明日はどこに行けば?」
とぼくはいう。
「11時にコロッセオの入り口に来て、迎えに行くよ」
とピエロさんは笑う。
当日、ぼくは現場に着いてコロッセオを見上げる。
ぼくはお金はないのでコロッセオの中には入ったことはない。
ぼくはピエロさんの携帯に電話をする。
「セナか。着いた? いま出てくよ。待ってて」
数分待っていると、ピエロさんはコロッセオの中から出てきた。
「おまたせ」
ピエロさんはほっぺが赤くて笑顔がかわいい。
ぼくはピエロさんの後ろについていく。
「ここが、決闘場」
(なんか、思ったより狭いな)
イタリアのコロッセオは、当たり前だが紀元前の石でできている。だが内部に進むと完璧なオフィスがあった。瀟洒なデスクは並び、石をくりぬいたような小窓からコロッセオが見渡せる。
「で、ピエロさん、どなたですか?」
「えっへん。ぼくはこのコロッセオの設計監督さ」
「じぇじぇじぇ!」
ということで、それから色々と、イベントがある場所に招待された。暇人のぼくはぶらぶらと見学をする。滞在の最後だったのでイタリア語もなんとかわかる(数日後には北イタリアで発狂してますが…)。
そのピエロさんに、
「セナはいま何してるの?」
「かくかくしかじか(マフィアブローカーMrs.Wと揉めて)で、コック修行は離脱しました」
「まずは結果だよ! 発表会しチャイナよ!」
「えーーーーーッ!」
という展開になった。
ピエロさんはぼくにローマにある知り合いのレストランを一日貸切にしてくれた。
でも、たった数ヶ月の下働きのぼくに、そんな料理のレセプションができるはずがないのである。北イタリアの時の同僚に掛け合ったが、彼もビビっちゃって。「北海道に戻って自分の店を開くんです」と断られる。
結果はダメ。
サンタクロース似のピエロさんは笑っていう。
「チャンスってのは、こういうもんだ。まずはとにかく結果だ。それから成長すればいい。道はちがえど結果はおなじ。最初の入り口があるかどうかが重要だ」
含蓄ある言葉だった。
三度目 2015年 地元群馬
イタリアから帰ってきてすぐに3.11。
それから一年くらい療養して(ここは割愛)京都へ。
京都でも発狂してしまって、上京警察署から北山第二病院へ護送措置。措置入院となる。一ヶ月の閉鎖病棟に入院のあと群馬に帰郷。
また療養生活。
少し回復したある日だった。
ふと高校の同級生のYの影が頭を過って彼の実家に電話をする。
するとYのお母さんが、
「Yは震災の年に死にました。肺がんであっという間だった」
「…明日、線香をあげに行きます」
翌る日、ぼくは線香をあげに行った。
仏壇でYに手を合わたあと、Yのお父さんからある話が。
「へえ、イタリアで料理をねえ」
「ほんとなんにも身についてないですけど」
「味はわかってるんだろ。本場イタリアの味」
「はい。たくさん食べました。作るより食べる派です」
「笑。でね、蒼井くん…絶対に儲かる話があるんだけど…」
Yのお父さんは行政書士だった。つまり会社を設立するチームの人だ。同僚や知り合いは弁護士や税理士たち。行政書類や申請書や金の管理のエキスパートが多くいる。幅広くやれば経営コンサルだってできるはずだ。
Yのお父さんの話はこうだった。
いまは介護老人福祉施設が多い。で、そこで仕出しの配達サービスをやるんだよ。このご時世だ、認可はかならず降りる。そのうえ政府から補助金は山ほど出る。そこで会社を作って山のようにある介護老人福祉施設に「週に一回、二回のちょっと高級なイタリアン」をテーマに弁当を配達するんだ。これはこれからの時代、絶対に儲かるぞ。蒼井くん。
その時ぼくは文章を書き始めていた。すこし高校時代の同級生に掛け合ってはみたものの、このビジネス話は霧消した。
オチはないです。
…汗。
皆さんも、一度はありますよね。
3億5千万円の儲け話を逃した話。
ぼくは2年前、FX詐欺で24万を取られてクレジットカードを止められました。…ぼくの人生ってホントお金に縁がない。
長いお話でした。
ご清読ありがとうございました。