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イデオロギーからコスモロジーの転換 ―自我形成とsoul-making― / 河合隼雄さん 語録①

心理療法家・河合隼雄さんが他界されて13年経ちますが、河合さんが遺されたもの――その生涯をかけて取り組まれた活動は非常に大きいものと改めて感じます。
その特徴として、ご自身の専門分野を基軸として、研究領域を拡大され日本文化の研究にも貢献されたこと、また、西洋と東洋、意識と無意識、個人と社会などの「橋渡し」役として、一般人向けの講演や執筆活動にも熱心に取り組まれたことが挙げられます。

やはり、日本初のユング派分析家としてのアカウンタビリティ(説明責任)を強く感じて実践されてこられたのでしょうか。

谷川俊太郎さんとの対談で、河合さんは、病気は個人の問題だが、ほぼ「社会的なびずみ」を背負っている、つまり、神経症一つでも「日本の病い」であり、それは、患者さんたちは日本を癒すための先駆者たちでもある、
また、分析家の役割として、①自分たちの扱う一人ひとりの患者の内に、その社会に対して「抵抗できる力」を回復させていくということ、
②そうした治療過程における知見を、社会に対する一種の「警告」という形で書き続けることだと思う、と言われています。
この強い想い、使命感を持って、批評・批判を覚悟で意欲的に活動されていかれたのでしょう。

河合さんは、臨床家を目指し、西洋の心理学を学び資格を取得して、日本で日本人を対象に西洋の心理療法を実施していきます。患者さんの心の深層を一緒に探っていく過程の中で、西洋の理論では当てはまらない、西洋とは異質の、ある特性のようなものに気づき始める。
そうして、日本人の心とは、自我とは何か、また、その自我はどのようにして形成されたのか――その日本人の心の深層を問い続けて、日本の神話や昔話にまで遡り、日本の文化の源泉を探求されていかれました。

その河合さんが、著書を通じてわたしたちに繰り返し発信され続けたこともう一度整理して、咀嚼して、今、ここで生きている時代に活かすために、数回にわたり取り上げていきたいと思います。

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父性原理と母性原理

西洋と日本の自我の相違を対比させると、その背景には、西洋は「父性原理」の強い文化、逆に、日本は「母性原理」の強い文化の特質があると考えました。
この相対立する二つの原理は、現実の宗教、道徳・倫理、法律などの根本において、ある程度の融合を示しながらも、どちらか一方が優勢となる状態で存在しているといわれます。
それぞれの特性を述べられていますが、ここでは表にまとめて紹介します。

河合隼雄1

都市化が進み、日本人の地域共同体への帰属の希薄化しているとはいえ、日本人の心性には母性原理が根強く息づいていることを「意識化」していくことが重要ということです。

河合さんは、もともと母性原理を根本とした「場」の倫理をもつ集団に、単に「個」の権利を主張するという父性原理を混入させていくだけだと、事態はややこしくなるということを、例を踏まえて何度も警告されています。

「個」の倫理に従う時は、個人の責任を明確にし、契約を交わすという態度を身につけている、自由に伴う責任を自覚していることを前提とします。それは、父性原理に基づく宗教観に支えられた倫理感でもあり、そこで鍛えられた強さがあります。そこを把握しておくこと。
つまり、日本人の抱えるフラストレーションは、単純に個を主張すれば解消できるというものではない、ということです。

「革新」を目指して新しい集団を結成したにもかかわらず、既存の集団に対抗するためにさらに強い団結力を求めて、きわめて保守的な日本的構造を持たざるを得なくなってしまうという矛盾が生じたり、
日本の社会で反社会的、反体制的行動を取る青少年も、社会体制に異議を訴えながらも、結局、心の深層で求めている体験の質は、母性への回帰ー日本文化・社会を古くから支えている原理であったり、ということがありえるといわれています。

いずれにしても、西洋では切り捨ててきた母性をいかに取り戻すか、日本では密着しすぎていた母性といかに分離するか、という課題をお互いに抱えているということです。

まず、個人一人ひとりが自分の状態を「意識化」する努力こそ積み上げるべきであろう、といわれます。
ここで提言している「意識化」とは、単純に父性原理の強い西洋モデルをよしとしてコピーするのではなく、日本人としてのわたしたち「全存在をかけた生き方」から生み出されてきたものを、明確に把握していこうとすること。結局、そのことは遠回りのように見えて、実は最善の道と考えられるものである――とのことです。
今、まさにそこが問われていますね。個人一人ひとりの意識改革を。

「アイデンティティ」の概念を再考する

「アイデンティティ」とは、精神分析学者エリク・エリクソンのライフサイクル論で青年期の発達課題として用いた言葉ですが、
河合さんは、なぜ「自我」の確立とせずに、「アイデンティティ」の確立という、「曖昧さ」をもつ用語を用いたのかということに着目します。

これは、「自我」という明確な概念ではなく、「アイデンティティ」という新しい用語を用いることによって、人が簡単に「言語によって把握しえること」以上のものを、そこに含みたかったからではないか、
西洋で定義された明確な「自我」の概念だけでは、捉えることができなくなったことを暗示していると考えました。

フロイトの発達段階論は、西洋の強い自我の確立を目標にし、壮年期を人生のピークとして想定されています。エリクソンはそこに後の2つの段階を付け加えただけのことではなく、これは、相当の発想、価値観の転換があったとみられています。

ここには、人生前半の自我の確立の過程よりも、人生後半の統合の過程を重要視したユングの影響が示唆される、というエンベルガーの見解を掘り下げていかれています。
ただ、はやり、エリクソンの想定した「自我」とは、より高みを目指し、多くの才能や地位を獲得していくことを目標とした西洋近代文明の所産であり、日本の「自我」とは異なることは留意しなければなりません。

ここで、河合さんは「アイデンティティ」の確立を、ユングの自己(self)の概念から捉え直してみると、自我と自己の「橋渡しをするもの」としてみることができるのではないか、と考えました。

「アイデンティティ」も、「自己」も、明確に定義できない「曖昧さ」を含んでいる、だからこそ、人の心の様相をうまく把握できるとして用いられている、そこを上手に展開されています。
下記に、図としてまとめてみました。

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このように、「自我」か「自己」かどちらに強調が置かれているかにより、アイデンティティを確立する上での重要要因も変わってくる、と考えます。

東洋でもインドの四住期説にみられるように、人生の前半において自我の強化は目標とはするものの、それは後半の「自我の消滅」に重きを置いているので、西洋的な意味での自我の獲得・確立とは異なるとしています。

このように別の観点から「アイデンティティ」を捉え直すことは、とても重要と感じます。以前の記事で紹介しました、吉福伸逸さんの言葉アイデンティティを破綻し続けること」を思い出します。

「アイデンティティ」とは、「自己」の概念のように、常に矛盾とその統合の過程が絶え間なく続き、発展していくものではないでしょうか。

自分のコスモロジーを完成させること

現代の若者の苦悩として、人生の前半と後半の両方の課題を抱えていることを挙げています。
つまり、青年期に人生前半の課題に取り組んでいる時はいいが、人生後半の課題についてふと意識すると、まだその問題に直面するには自我は未熟であり、その大きさに圧倒され、無気力にならざるを得なくなる
昨今の「無気力学生(スチューデント・アパシー)」の背後には、この問題がある、と考えました。

エリクソンは自我形成において、「イデオロギー(世界観・価値観)」は自我の正当化に用いる武器として重要視しました。
自分に合う既存のイデオロギーを借りて、自我の強化に役立てることもできる。しかし、現代の若者の悲劇は、既存のイデオロギーの一面性にすぐに気づいてしまう、知り過ぎてしまうことなのでしょう。

河合さんは、人生後半の課題は、自分なりの「コスモロジー」を完成させることである、といいます。

「コスモロジー」とは、この世に存在するすべてのものを自分も入れ込むことによって、全体性をもったイメージへまとめあげていくこと、
自分と切り離して世界を対象化するのではなく、自分の存在との濃密な関係付けの中で、全体性を把握する、秩序化していくこと――
そこには、「悪」の位置付けも含まれ、切り棄てることはできない
すべてのものを入れ込んでこそ、コスモロジーである、とのこと。

ユング的な意味で、「自我」から「自己」への深化には、「イデオロギー」から「コスモロジー」への転換が必要ではなのだろうか、といわれています。

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西洋近代の自我の確立における「悪」

西洋近代の自我の確立は、怪物退治の英雄神話に象徴されるように、怪物という「悪」と戦い、その怪物に捕らわれている(犠牲になる)女性を救い出し、戦いに勝利して、その女性と結婚する形で物語は完結します。
この結婚とは、自立性を獲得した自我が、女性を仲介として、世界と「新しい関係を結ぶ」ことを意味しています。(女性にとっても、自我の獲得過程は「男性英雄像」で示されます)

現代日本人も相当「近代化」されており、表層的にはこの説にほぼ当てはめて考えられる、としています。

コスモロジーの完成には、この「悪」の位置付けがあります。
自我の確立過程で、自我の主体性や統合性を脅かすものは、自我にとってすべて「悪」であり、「悪」との戦いに勝ち、自我が確立される。
しかし、その後、これまで「悪」としていたものを、自分のコスモロジーに取り入れる努力を払わなければならない、ということです。

結局、イデオロギーに基づく正当(と考える)行為や、観念的な努力等によって、コスモロジーをつくりあげることはできない、ということです。

「自我形成」と「soul-making」

河合さんのユングの理論を基に、臨床経験から現代の日本人の抱える課題を熟考・考察し、自身の論を展開し提言されていることは、卓見と思います。

河合さんは、ある時期から「たましい」という概念を用い始めました。
ユング派の分析家ヒルマンの言葉「ソウル・メイキング(soul-making)」を引用し、このユングの人生の前半と後半の課題について、前半は「自我形成」、後半は「ソウル・メイキング」とも説明されています。

現代の若者の「無気力」の現象はこのソウル・メイキングの課題にとらわれ、苦悩しているのではないのか――このソウル・メイキングにとらわれても、それを意識化して直面することができず、ただ自我形成を無価値として感じるのみの状態ともいえる、とのこと。

さらに、そのことは、先進国ではその「文化」自体が「人生の後半」に入っている状態とも考えられるという。ゆえに、若者たちは人生前半にして、すでに人生後半の課題を無意識に感じ取っているのでしょうか。

この点については、日本は微妙な状態にあるという。確かに、先進国としてソウル・メイキングの課題が重要ともいえるし、逆に、日本では自我形成の課題の方が重要だともいえる、とのこと。
そこは、治療者として両方の課題を考慮しながら進めていくのが望ましいが、河合さん自身は、「ソウル・メイキング」を中心に置きたいといわれています。

自分の人生を生きる上で、人生後半の課題――「自己」の実現、ソウル・メイキングは、必ずどこかで突き当たる不可避な課題です。
河合さんが、「自分の仕事はソウル・メイキングに中心を据える」と明言されたのも納得ですね。その意志・理念に従って、河合さんが生涯を通じて成し遂げられたことは、すべて自他のソウル・メイキングにつながるものだったのでしょう。

このsoul―「たましい」について河合さんは、ヒルマンの言葉から、
「たましい」は言語によって定義できない、ファンタジーを通じてしか語れないものであり、ソウル・メイキングには、ファンタジーが必要である
つまり、人は自分の生涯を通じて、その生涯にふさわしいファンタジーをというものを見つける必要がある、といわれています。

ファンタジーについては、次回に取り上げたいと思います。

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参考資料
・日本人と心理療法―心理療法の本〈下〉 (1999)
・空中構造日本の深層 (1999)
・母性社会日本の病理 (1997)
・生と死の接点 (岩波書店/1989)(岩波現代文庫/2009)




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