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わたしを湿らせた朝の『ケンカ』 @駅ホーム

今朝、わたしはカフェイン切れの思考をひきずりながら駅のホームに立っていました。例えるなら、未開発のVRヘッドセットで見るディストピア風景のような曖昧で不確かな朝の空気。電車が来る、ただそれだけの事象をどうしてこんなに世界は騒がしく演出するのか。時計の針が示す時間は一つでも、目の前に広がる人々の「時間」は何億通りもある。

とくに今朝のあのおじさんたちの時間。そう、彼らが電車に乗り遅れるというパラレルワールドの崩壊を阻止するために繰り広げた壮絶な「ケンカ」は、わたしの心の中に何か得体の知れない湿気を残しました。

おじさんAは、小型のスーツケースを引きずりながら猛ダッシュしていました。空気を切る音がリアルで、まるで彼の足元に回転するカタパルトでも仕込まれているのかと思うほど。その背後に見えたのは、遅延証明書よりも自己証明を優先する、都市型人間の熱量そのものでした。

その熱量は、おじさんBが、たまたまおじさんAの進路上に立っていたばかりに無防備に衝突を食らう対象となったその瞬間に、物理的な熱と衝撃として転換されたのです。もちろん、ここで終わるはずもありません。彼らはその場で立ち止まり、言葉という剣と盾を駆使して熾烈な戦いを始めました。

この状況を「ただの朝の小競り合い」として片付けるには、あまりに勿体ない気がします。二人のやりとりは、むしろアートでした。「あんたが変なとこに突っ立ってるからだろ!」と叫ぶおじさんAの発言は、カオス理論的な側面を感じさせました。初期条件の違い、つまり「立ち位置」のわずかなズレが大規模な混乱(この場合は遅延の可能性)を引き起こすことを直感的に理解しているのです。対しておじさんBは、「お前があほみたいに急いでるからだろ」と言い返しました。これには古典経済学的な合理性があります。資源(時間)の配分ミスは自己責任であり、それを他人に転嫁するのは不当である、と。

でも、ここで注目すべきは、彼らのケンカがどこか無意識的な「コミュニケーションの儀式」にも見えたことです。衝突という出来事があまりにも唐突であったために、彼らは自己の存在を「互いに」確かめるため、言葉の応酬という儀式を選んだのではないでしょうか。つまり、これは単なる喧嘩ではなく、存在論的アクションゲームだったのです。「わたしはここにいる!」という叫びが、彼らの声の奥底に潜んでいました。

そして、わたしは彼らを見て「やはりわたしたちはみんな子供なんだな」と感じたのです。違います、侮辱ではありません。むしろ、この言葉には敬意が込められています。子供のような本能的な行動が、わたしたちに「生きている感覚」を与えることがあるからです。おじさんたちが衝突し、ケンカし、互いを確認し合ったその一連の行動は、実は彼らの人生において数少ない「本気」の瞬間だったのではないでしょうか。

本気になるというのは、たとえそれがどれほど滑稽な場面であっても美しいものです。美しいものには湿度があります。わたしたちは乾いた社会を生きています。合理化が進む一方で、わたしたちの思考は簡略化され、湿り気を失っています。その点、あのおじさんたちの湿った情熱は、わたしを「人間らしさ」の渦中に引き戻しました。これを見た後では、日常の大半があまりに乾いて見えてしまいます。

でも、そんなことを考えながらホームの隅で一人うなずいているわたし自身も、滑稽であることに気づいています。結局、わたしはこの「ケンカ」という些細な現象に感動し、考えすぎている変態なのです。こんなことを言う自分を恥じるべきかと思いつつも、なぜか誇らしい気持ちにもなります。なぜなら、この滑稽さこそが、わたしが生きている証だからです。

おじさんたち、ありがとう。あなたたちの戦いは、わたしに人間の奥深さを教えてくれました。ここまで読んでくださったあなたにも感謝しつつ、濡れた思考とともに濡れたキーボードを拭きながら筆を置きます。

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