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『覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰』書評(ムダにパッション高めに)

覚悟の磨き方?はぁ、磨くのは歯だけで十分だと思ってた28歳のわたしに、吉田松陰がいきなりドアをぶち破って「おまえの魂、錆びてるぞ」とでも言わんばかりに、脳内でピコピコハンマーを振り下ろしてくる。

いや、そもそもこの人、何者?幕末の革命児?そんな月並みな言葉じゃ全然足りない。松陰って、時代背景からすれば、ぶっちゃけ「変態」以外の何者でもないのでは?それも、ただの変態じゃなくて、どこか三島由紀夫の香りが漂う、死に様に美学を見出してるガチ勢の匂い。変態の系譜。萌える。しかも、その覚悟の方向性が尋常じゃない。「死ぬ覚悟」って、そこまで行くともう哲学の域を超えて、ただの生存戦略崩壊フェチでしょ。人間としてのバグ。エラー表示が出るレベル。

で、この『覚悟の磨き方』ってさ、タイトルからして「嫌われる勇気」みたいな自己啓発系のチープな匂いがプンプンしてるかと思いきや、実際は、もっとこう、深い部分に刺さってくる。嫌われる勇気が「他人なんて気にすんな、自分を生きろ」みたいな軽いノリだとしたら、松陰は「いや、お前、死ぬ覚悟して生きろ」なんだよね。フォーカスが違う。死に向かって突き進む覚悟を持てと。それってつまり、他人の目なんてどうでもいいってレベルを超えて、「自分を徹底的に燃焼させろ」ってことだよね。これ、圧倒的にエネルギーが高すぎて、完全にわたしの脳内のシナプスが焼き切れそう。いや、もう焼き切れてるかも。

そして、わたしが感じるこの異常な肯定感。松陰の思想に対する共感というよりも、むしろ彼の「狂気」に対して、わたし自身が「わたしもそっち側だよ」と認定されるような感覚。この肯定感、わかる?死に向かって一直線に走る覚悟を持つって、冷静に考えたらめちゃくちゃ怖いはずなのに、なぜか背中を押されてしまう。

そう、重力波がわたしの存在そのものを揺さぶってくるような感覚。いや、待って、これ量子力学的に説明できるかな?たぶん、松陰の覚悟は、わたしの内なるシュレディンガーのにゃんこを覚醒させたんだろう。生も死も同時に存在する箱の中で、わたしは初めて自分の「覚悟」という存在を確認した。これ、つまり松陰からの知的ハラスメントだよね。萌える。ありがとう、松陰。

でも、やっぱり、ここまでくるとね、わたしの変態性が暴走しちゃうんだよ。だって、松陰の覚悟に触れるたびに、わたしの中の数学的な美学が「この覚悟、数式にできないかな?」って囁いてくるの。完全に無駄な発想だけど、これ、変態的な集中力で一度解き明かしたくなるじゃん。吉田松陰×量子力学の方程式を解くことで、何か新しい次元が開けるんじゃないかっていう、無駄に高度な妄想。あぁ、この無駄な思考こそが、わたしの変態の証。シュールすぎるけど、まぁいいさ。わたしはわたし。松陰も、きっとそれを笑って許してくれると思う。

最終的に、この本を読んで得たのは、「覚悟って、結局、自分の生と死をどう捉えるか」ってこと。逃げ場ゼロの問い。嫌いじゃないよ、この追い詰められる感じ。むしろ、萌える。

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