『星の王子さま』は甘くてカオス
ねぇ、ちょっと耳を傾けて。わたしはアラサー経営コンサル、そう、昼間はデータの海で無数のチャートと格闘しながら冷や汗を流す一方、夜は数学的エロティシズムにどっぷりと浸る。変態だって言われても、もう慣れっこ。
だけど今日は、こんなわたしが『星の王子さま』というシンプルで甘い物語に感情を振り回された話を聞いてほしい。
ねぇ、『星の王子さま』って何なの?
この物語は数式で言えば非線形偏微分方程式みたいに、美しさが単なる一つの解へと収束しない。サハラ砂漠に舞い降りた言葉たちは、絶え間なく揺らぐ風に吹かれながら、無数の粒子の波としてわたしの脳内に侵入する。理解しようとするたびに分解されて、再構築されるたびに違う美学を醸し出すの。まるで、ひそかな風のようにね。
ある夜、仕事の合間に『星の王子さま』を開いてみた。するとその瞬間、デカルト座標系に正確に配置されていたわたしの理性が、いきなり非ユークリッド空間へと飛ばされた気がしたのよ。砂漠のシーンで、星々がきらめきながら空間の曲率を変化させるその描写に出会ったとき、わたしは何もない無限の空虚に、なぜか妙に性的なゾクゾクを感じてしまった。
そう、説明できないけれども、宇宙の広がりが奇妙に官能的だった。星と星が戯れるその距離感。わかる?手を伸ばしても届かない、けれど視線は絡み合う。ちょうど仕事で扱う無機質な数値たちが、計算式の中で絶妙にバランスを取る、その感覚と似ている。
ああ。王子とバラの愛、心理学的には執着の象徴。でもその執着の態様は、読み返すたびに変貌する。愛しているが故に持つ支配欲、あるいは触れたいのに傷つけてしまうことへの恐怖。感情がリズムを持って鼓動し、わたしの内なるメロディが波打つ。ベートーヴェンの交響曲の中で、たった一つの音符が全体を揺さぶるように、王子の台詞が、わたしを完璧に操るの。
あのバラは何だろう?その象徴がわたしの胸に突き刺さるたび、植物学的視点が香り立つのを感じる。バラのために土壌を整え、彼女が望む環境を計算し、光と影の調和を取る。そう考えると、植物ホルモンのカオス的相互作用と、わたしの思考がぴったり重なるじゃない。ある夜は、まるでホルモン・バーストが脳内で花開いたかのように、王子の愛がわたしの神経細胞の隙間を侵食してくる。繊細な軸索の枝に触れ、じわじわと快楽を引き起こすように。
わたし、異常な執着心を持つの。自分でもわかっているけど、異常だと知りつつも解き放つことができない。王子とバラの話を読みながら、どうしても過去の恋愛が脳裏をよぎる。未完のまま終わった物語たちが、わたしの人生という絵画の上にぼんやりと色を重ねていく。破れた恋の断片、それはサブカル的感性で見れば、わたしの趣味としてのエッジなのかもしれない。わたしはその断片を、まるでリサイクルされたアート作品のように、大切にコレクションしているのよ。
考えてみれば、あの物語は確かに量子論的だ。王子の世界には、不確定な感情と意味が粒子のように存在し、わたしたちが意識を向けることで波として収束する。その瞬間、解が導き出されるけれど、また次には新たな不確定性が生まれる。ちょうど、ビジネスの世界で予測が失敗に終わるたび、新しいモデルを構築しなくてはならないようにね。計画と不安が、相反する粒子としてわたしの中で衝突し合う。
だけど、一体なぜわたしはこの物語に夢中になっているんだろう?王子の目に映る「目に見えないものの美しさ」への問いかけだろうか。わたしは、すべてを見える形にしたがるエコノミストのような理系人間。それでも、見えないものに惹かれるこの奇妙な感覚。ああ、これは感情という名の不条理な波動関数だ。仕事のプレッシャーとわたしのエロティシズム、すべてが一つの波となり、わたしの内側で絡み合うのを感じる。
そして、そう、笑いの要素もある。あのキツネのシーン、あれはまるでギャグみたいな哲学。馴染むことに意味を見出す?笑っちゃうけれど、確かにそうだ。わたしは仕事で企業の文化を分析する。それはどう見ても数学的に最適化できるものではない。それでも、どこか人間くさくて切ない、馴染むことの価値。こんなことを考えながら、夜中にひとりでくすくす笑う自分、滑稽だと思いながらもどこか誇らしい。
ねぇ、もしかしたらわたしは『星の王子さま』という寓話に、わたし自身の世界観を勝手に重ねて遊んでいるのかもしれない。自己満足かもしれない。でもいいの、それがわたしの生きる流儀だから。計算式の美と愛の不可解な感情に、もう一度深くダイブするのが癖みたいなもの。そう、わたしの脳内は今日もカオス。笑いと哲学の波を行ったり来たりする、その絶妙なバランスの上に。
星々の囁きを聞きながら、わたしは今日も、愛の意味を求めて変態的に喘ぐのである。
(しれっと戻ってきちゃいました)