『モモ』エンデ著 を読み直す
小学生の頃に読んだ「モモ」。あの不思議な物語が、今になって胸に迫ってくる。時が経ち、社会に揉まれ、疲れ果てた今だからこそ、モモの世界が鮮やかに蘇る。
いつからこんなにも忙しくなってしまったのだろう。小学生の時は、わたしにとって「モモ」は親しみやすい友達のような感覚があった。しかし、いまはどうだろう、と考えてみたときにわたしは間違いなく時間泥棒の側になっていることに衝撃を受けた。
時間。目に見えず、触れることもできない。しかし、わたしの人生そのものだ。ミヒャエル・エンデは、この見えない宝物を「モモ」を通じて示してくれた。モモという不思議な少女を通して、わたしは何を学べるのだろうか。
モモの最大の特徴は、「聴く力」だ。彼女は誰の話も、全身全霊で聴く。その姿勢は、現代を生きるわたしたちへの痛烈な問いかけではないだろうか。スマートフォンを片手に、常に情報を追いかけ、せわしなく生きるわたしたち。本当に大切なものを見失っているのではないか、と。
この傾聴自体は前回の記事でも書いたとおり、スキルを超越した人生への態度というべきものだとわたしは考えている。この時点ではモモの話は全く頭になかったのだが、その後、ふと、モモを読みたくなったのは、心の深層で通じるところがあったのかもしれない。
モモの傾聴は、単なる「聞く」という行為を超えている。それは、相手の心の奥底にある想いを汲み取る、深い共感だ。この能力は、人間にしか持ち得ない特別なものだ。AIやロボットがいくら発達しても、真の意味での「共感」は難しいだろう。これは人間の本質的な強みであり、忘れてはならない価値なのだ。
現代社会への批判もまた、「モモ」の重要なテーマだ。時間貯蓄銀行の灰色の紳士たちは、効率や生産性を追求するあまり、人々から時間を奪っていく。この姿は、まるで現代社会の縮図のようだ。わたしたち自身、知らず知らずのうちに「時間泥棒」になっていないだろうか。
ファンタジーという形式を取りながら、「モモ」は深遠な哲学を内包している。子供の視点を通して描かれる世界は、大人になったわたしたちの目には新鮮に映る。なぜわたしたちは、成長する過程で「子供の目」を失ってしまったのだろうか。純粋さ、好奇心、想像力。これらは本来、人間が生まれながらにして持っている宝物なのに。
心の豊かさとは何だろう。物質的な豊かさを追求するあまり、わたしたちは精神的な貧困に陥っていないだろうか。モモは物質的には何も持っていない。しかし、彼女の心は限りなく豊かだ。これは、現代を生きるわたしたちへの強烈なメッセージだ。本当の幸せとは何か、豊かさとは何か。根本的な問いに向き合わねばならない。
「生きる意味」。これほど普遍的で、しかし答えの見つからない問いはない。モモは、ただそこにいるだけで人々を幸せにする。太陽のような存在だ。彼女の存在そのものが、生きることの意味を体現しているようだ。わたしも、もっと自分の存在価値を信じてもいいのではないだろうか。
読み返すたびに、新たな発見がある。それが「モモ」という物語の魅力だろう。子供向けの本と侮るなかれ。そこには、大人になった今だからこそ理解できる深い洞察が隠されている。
時間に追われる日々。しかし、ふと立ち止まって考えてみる。わたしは本当に「生きている」のだろうか。ただ惰性で日々をこなしているだけではないだろうか。モモは、そんなわたしに「今、ここ」を生きることの大切さを教えてくれる。
人間関係の希薄化が叫ばれる現代。SNSで繋がりながら、実は孤独を感じている人も多いのではないだろうか。モモの示す「真の繋がり」とは、相手の心に寄り添い、共に時間を過ごすことだろう。これは、テクノロジーでは決して置き換えられない、人間にしかできない特別なことなのだ。
わたしも、わたしなりのモモになれるかもしれない。誰かの話に真摯に耳を傾け、心から共感する。存在をそのまま受け入れる。わたしの世界は変わり始める予感がした。(もっとも、エンデの世界観をそのまま受け入れるわけではないし、この世界観が良い悪いの評価をするものでもない。自分が主体的に生きるうえで、わたしなりに咀嚼した上で一つの指針となるようなものとして、わたしは受け入れたい)