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『マウント』への対応戦略

謎のマウントをとってくる人、みなさんの周りにもいませんか?
わたしは今、そのような人たちへの対応戦略を考えるにあたり、社会の「湿度」という概念について深く考えざるを得ない状況に追い込まれています。湿度といっても梅雨や除湿機の話ではなく、人間関係の表面張力が微妙に保たれつつも、ぬるりと流動的に他者へ侵食してくる、その妙な気配のことです。

この湿度が高すぎると、関係性は「ベタつき」ます。低すぎると「パサつく」。そして湿度を意識する人々。ここでの主題、つまり「マウントをとる人々」は、湿度をコントロールする術を心得ているようで、その実、湿り具合に溺れているだけなのです。

彼らが発する言葉、態度、そして微妙な眉毛の角度ひとつひとつが、「わたしはあなたよりも高いところにいる」感を演出しようと必死な努力の産物であることは明白です。物理学的に言えば、これはスカラー的であって、ベクトルが欠如している状態。彼らは自分の価値を一方向的に押しつけることに長けている反面、他者からの反応という次元をほとんど無視しているのです。ベクトルが欠けたスカラーマウント、そのような未熟な設計思想を目の当たりにするたび、わたしは心の中で苦笑します。相対的な高さを強調するだけでは、真の優位性は生まれません。

昆虫学的にも見てみましょうか。たとえば、クジャクヤママユ(名付けも美しい)のオスは、羽を広げて自分の美を誇示しますが、これは実は性的選択のために進化したものにすぎません。つまり、彼らの行動は環境に適応し、明確な目的を持っています。一方、マウント人間たちは、その行為が「目的化」してしまっているのが問題なのです。いや、もはや目的ではなく、ただの癖。ビョーキとも言っていいでしょう。反射的マウント症候群とでも名付けたくなるような現象です。

では、どう対応すればいいのか。
わたしの戦略はシンプルでありながら、エッジを効かせています。それは、「意図的な共犯関係を構築する」というもの。たとえば、相手のマウント発言に対して「すごいですね、わたしなんか到底及びません」と一歩引いてみせる。これによって、相手の脳内に一瞬の混乱を引き起こします。予想外のリアクションにより、彼らの自己評価はわずかに揺らぎます。そして次の瞬間、わたしは少しだけ核心に迫る質問を投げかけます。「ちなみに、その発想はどこから来たんですか?」というような。これにより、相手は自分の発言の背景や動機を再考せざるを得なくなり、無意識に湿度が調整されていきます。

ここで面白いのは、人間の深層心理において、誰もが「他者に認められたい」という欲求を抱いている点です。マズローの欲求段階説でいえば、自己実現の一歩手前、「承認欲求」のあたり。マウント行動は、この欲求を満たすための不器用でチープな表現である可能性が極めて高いのです。しかし、それを意識的にやるか無意識的にやるかで、話は大きく変わります。無意識的マウントは、湿度のバランスを大きく崩す原因になりがちですが、意識的なマウントであれば、むしろ対話の潤滑油になることさえあります。

さらに哲学的に掘り下げるならば、マウントとは「自己の存在証明」の一環ともいえます。デカルト風に言えば、「他者に勝つ、ゆえに我あり」。ここには、現代社会における承認構造のゆがみが見え隠れします。経営コンサルという職業柄、わたしはこの種の競争的文化に日常的に触れており、ある種の哀れみすら覚えることがあります。なぜなら、これらの行為により彼らは短期的には満足感を得るかもしれませんが、長期的には心の乾き、つまり「湿度不足」を招くからです。

だからこそ、湿度を保つには、自分自身が相手にとって「調湿機」になる必要があります。湿度が高すぎる相手には少し乾燥した風を吹きかけ、逆に乾ききった相手には適度な水分を与える。これはまるで植物を育てるような作業です。そして最終的に、その関係性の湿度が心地よいバランスに達したとき、相手は無理にマウントをとる必要がなくなり、会話は自然な「相互承認」へと移行します。

この濡れたエッセイでみなさんの脳を湿らせてごめんなさい。けれども、この挑戦を通じて、あなたの湿った脳に少しでも快感が走ったのなら、それがわたしの喜びです。

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