君が聞いている音色を大切に
息子が国語で「スーホの白い馬」を習い始めた。
毎日の宿題で決められたページ分を音読することになっているので、その時は家事の手を止めて座って聞くようにしている。
好きな話なので楽しみにしているのだけれど、息子は宿題以外のページを読むと損した気分になるようで、いくら文章が尻切れでも頑なに読んでくれないのが残念である。
息子は授業で通しで読んでいるので、このお話の顛末を勿論知っている。
—ママもこのお話好きなんだよ、と言うと
負けじと
—ぼくも好き、と言う。
それから、
—最後は馬が楽器になっちゃうんだけどね、と教えてくれた。
ーええと、まってね。なんとかキンっていうんだけどね。
馬の頭がついてるの。
ぼくが言うまで言わないでね。
私がつい言ってしまいそうになるのを遮って、
教科書のページをめくり、”なんとか”の部分を見つけて教えてくれた。
ーばとうきん(馬頭琴)っていうんだよ。
馬の顔がさぁ、ついてて。
馬は死んじゃってもね、とても美しい「ねいろ」を残すの。
息子は「ねいろ」と言った時、見ていた教科書から視線をあげた。
そのひととき彼は物語の中にいて、ばとうきん という珍しい楽器の音を頭の中で聞いているように思えた。
私は手にしていた携帯で「馬頭琴」を検索するつもりだったのを止め、息子の頭に描かれているであろう、モンゴルの草原に響く美しい音色をちょっと想像してみたりした。
ところが、そんな想像の音色を味わうひと時は一瞬にして終わる。
ーはい!宿題終わり~。サインちゃんと書いといてよ。
サインないと、やってない事になるんだからさ。
先日の付け忘れをチクリと指摘されて、物語の幕はあっけなく降りた。息子の次の興味はマイクラへと移っていった。
*
すっかり懐かしい気持ちがよみがえって、久しぶりに自分が持っている絵本でこのお話を読みたくなった。子供が寝てしまったあと、私は自分の本棚から背表紙の厚さもないその一冊をやっと探しあて、取り出した。
これは多分私が持っているもので一番古い本だと思う。本のうしろには母親の字で私の名が書かれている。
表紙は経年でやけてしまい飲み物の沁みのような斑点も付いている。綴じ部分は既にほつれているので開くのに慎重を要さねばならない。
随分くたびれてしまっているけれど、この表紙に描かれている白い馬。
この白馬の姿に、幼い私は強く惹かれていた。
伏せ気味の目にかかる長いまつ毛、鼻先はうす桃色。
たてがみは柔らかく揺れていて、後ろに倒れた耳が愛しい声をとらえている。振り返っているような姿は、信頼している主の”スホ”が呼びかけたからで、それが喜びのしぐさである事は私の中では明白だった。
馬の輪郭が背景に混じってしまいそう。
今見ても幼い子供が飛びつきそうな絵というよりはとても大人びた絵のように思う。でも確かにこの表紙の白馬は私の中で生命を得ていて、心をとらえて離さなかった。スホに向けられた瞳はそのまま私に向けられているのと同じだった。
学校の休み時間には、自由帳にこの白馬の絵ばかり描いていた時期もあった。
お話しの大まかな筋は当然ながら息子の教科書と同じなのだけれど、この古い絵本の方は言葉が少なく、読み手の想像に任せている部分が大きい。
小さい子供むけに書かれているので、文字は全てひらがなで、一節も短いので親もそして文字を覚えたての子供も読みやすい。
そしてページを繰るごとに添えられた絵が言葉の余韻を吸い込むように存在し、当時の印象のまま私の胸を突く。
私はこれを最初は母に、自分で読めるようになってからは自分で、何度も繰り返し読んだのだった。
スホに命を助けられて、たくましく成長した”はくば”
兄弟のようにスホを乗せて、草原を白い風のように駆ける”はくば”
狼からスホの大事な羊を守るため勇敢に立ち向かう”はくば”
スホと”はくば”との心の結びつきが優しく強くなるにつれ、私の心象もリアルになっていく。
”はくば”がスホを貶めた”おう(王)”を蹴落し、草原をただひたすらスホの元へ駆け逃げる。
だんだん疲れて追いつめられるところは、読んでいてまだ涙がにじむ。小さかった私も胸をきゅうっと小さくして、”はくば”の運命をはらはらと追っていた事を思い出す。
お話の中にいても、ただ自分は見ているだけしかできないのだという気持ちは、もしかしたら初めて味わう「無力感」だったのかもしれない。
争いや裏切り、理不尽な世界があるという事をまだ知らなかった私は、スホと”はくば”の運命を見守りながら、こんな事はあってならない、こんな思いはもうしたくない、という想いを胸に刻んでいたのだと思う。
一人暮らしを始めると決めた時、全ては持っていけない中でこの絵本を段ボールの隙間に挟み込んだ。選んだ身の回りのものは、本も雑貨も含めて全て、これからの私が強く居られるために寄り添ってくれる、お守りのようなものであるのが条件だった。
ここから教訓めいた何かを汲み取ろうと思うわけではなく、この美しくて優しく哀しい物語を、大事に自分の中に持っておきたかった。
*
教科書で読む「スーホと白い馬」とは別に、この古い絵本を息子と一緒に読んでみよう。
何を心に描くか、思うか、聞こえるかは、息子にしか分からない。
大きくなったときに、ふとした時に思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。
でも私には私の、息子には息子の「美しい音色」が響いたことは残る。
心で鳴った音はその人だけの特別なものになる。
この世界で、君の中に聞こえた音色が、この先もずっとずっと美しいものでありますように。