泡日記3

出かける前は変化がなかったのに、2時間ほど用事を済ませて帰宅したら、虫籠の中で蝶が羽化していた。この子は去年の秋ごろ、日に日に風の冷たさが増す時分に、家の檸檬の葉にぽつんと一匹現れたアオムシだった。食欲もそれまでのアオムシの旺盛さに比べて少ない気もするし、このまま鳥がみつけるかしらと2、3日様子を見ていたが、寒空の中で遠慮がちに葉に留まる姿がいじらしくなって、虫かごに移してやったのだ。家の中にいれてからも控えめな姿勢は変わらずで、入れてやった葉も食べきらぬまま変態を繰り返し、ある日小さな蛹になった。真冬に蝶になってしまうのではないかしらと心配したが、夏生まれの蝶が生んだ幼虫は冬越しをすると分かり、どうやらこの子はそれに当たるようだ。蛹を越冬させることは初めてで、梅雨前に羽化していった蛹の様子を思い返しても、この子はより潤いのない気がして、このまま死んでしまうのではないかと思いつつ春まではこのままでとおもって放置していたのだ。

春一番が少し前に吹いて、随分温かくなって来たのにまだ蛹の様子は変わらないなぁと、ぼんやり頭の隅に置きながら日々を過ごしていた。3階の部屋はうちの中で唯一陽当たりもよいし、その分室温も温かいのだが、まだ蛹に変化の兆しは見えない。私も虫かごの埃を払う事もしないで、ただ置いているだけである。人間の体感でこんなに春を感じているのに、いよいよ蛹のまま死んでしまっている事を認識しなくてはいけないのかしらとも考えた。我が家は鳥のモチーフの置物や照明、人形などを飾っているのだが、たまたま虫かごの正面にインコの割とリアルな置物を据えていたのが悪かったかしらとも独り言ちたりした。やはり本能として鳥の目前では羽化できないだろうな、悪いことしたな。ではいつこの子を処分しようか。処分?なんていやだなぁ。蛹は虫かごの蓋に糸を出してぶら下がっているので、外の枝に下げてやる事も出来ない。そんなことを、ちょうど1週間ぐらい前に思っていたところだった。

母親の携帯の解約手続きに、私の戸籍謄本が必要と分かって取りに行った。先日の弾丸帰讃時に、溜まってあった未払いの請求書や書類を夜中じゅうかかって整理した。夜が明けて、父に聞いても埒のあかない訳の分からない請求先に一つ一つ問合せ、使っていないプロバイダ料金など不要なものは解約し、払えるものは支払いをする。母の携帯代が数か月未払いになっていた。多分もう母が携帯を使うことはないだろうからと解約することにした。ここに居る間に出来る事をやらなくてはと神経がびりびり研ぎ澄まされているから判断も早い。マルチタスクの鬼になって、今や仕事がめちゃくちゃ出来る人である。感傷が追い付いてくるのはもう少し先、多分。

一緒に住んでおらず私の姓も変わっているので、代理で手続きする上での事情を説明し、関係性を説明し、理解を得て初めて必要な書類を送ってもらえる。それを先週から宛先を変えて何度も繰り返している。代理で支払うのは簡単なのに、解約は当然難儀である。戸籍謄本?。そんなもの最後に取ったのはいつだったか。コンビニ取得の条件から私の場合は外れているので、電車に乗って役所に出向き、取得しなくてはいけない。ここで面倒と渋ったら請求書が1枚増えていくだけである。重い腰を上げて、今日中に一つは郵送を済ませようと心に決めた。部屋にある虫篭はただの風景になって、蛹の存在にも気を払うこともなく、ただ頭の中で干乾びていたのだった。

曇った虫篭で失礼します。

それがさっきのこと。
帰宅して、パソコンに向かったところでハタハタと聞きなれない音がするのに気が付いた。ハッと横をみたら、虫篭の中で蝶が羽をばたつかせている。蛹が蝶になっている。
思わず駆け寄って覗き込んだ。埃で曇ってしまっている籠の中に、色の濃淡が少し薄い(ように感じる)アゲハがいる。私が声を上げたのでそばにいた犬も気が付いて興味津々に手を出したりしている。いつ出てきたのか、羽はすっかり乾いてハリもあるから、私が出かける頃には既に羽化が始まっていたのかもしれない。もう飛べます、飛んでいけますと必死で羽を動かしている。子供に見せてやりたかったけど、狭いところはもう苦しいだろうと写真を撮ってベランダに放してやった。
蓋を開けてやると、蝶はおっかなびっくりと言った様子でチューリップの葉に降りてとまった。どこまでも羽を伸ばせる外の世界。5か月近くも虫篭にいて、もう干乾びて死んでしまったと思っていたのに。あなたの生命を私が決めてしまわなくて、良かった。

やがて蝶は二度ほど羽をばたつかせ、ふわっと身体を浮かせたと思ったら風が一瞬強く吹いてきたのに乗って飛んでいき、私と犬の視界からあっけなく消えていった。
飛んで行って広い空を味わって、咲き始めた春の蜜をあなたのストローで思い切り吸い込んで。今日みたいに空が澄んだ日に飛び出せてよかった。

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