あそこへ行けば
場所に救われたことが幾度かある。
その中の一つ、それは有名なとある教会の中にひっそりとある小さな聖堂で、ほのかな黄土色をした土壁が壁と天井を覆い、壁には素朴な十字架が控えめに架けられていた。私がそこを訪れた時はちょうど照明が消されていたためか、窟の中に入ったように堂内は暗くて目が慣れるのに少し時間が必要だった。建物の外側から中にそのまま引きこまれた浅い池に外光が反射して、申し訳程度に床を照らしていた。入っていいのか戸惑いながら扉を開け見えたこの光景に引き込まれるようにして、足を踏み入れた。
聖堂の中には私の他には誰もいなかった。そのことに安堵して、一番入り口に近い椅子を選んで腰かけた。池に低く置かれた水盤から水が落ちる音が絶えず聞こえてくる。その水音が私の緊張を少しづつ溶いていくようだった。そのまま目をつむって、息をゆっくり深く吐きだした。
***
ときどき、自分がどうやって息を吸っていたか分からなくなる事がある。1...2...で吸って、3...4...で吐いてだったっけ。いや、3ぐらいまで吸ってたはず。それにならってみると今度は4の吐くが慌ただしくなり息苦しい。そうなるともう1と2の間合いさえいつもと違う気がしてくる。
意識すると益々リズムは崩れて、このまま突き詰めると過呼吸になってしまうと分かっているので考えまいと抵抗を試みる。で、あえなく失敗というのを繰り返す。乱れた鼻呼吸はついにはランニング後のような荒い口呼吸へとうつっていく、という流れ。
その流れが見えてくると、私はよく自転車に飛び乗ってやみくもに街を走った。走っている間はいろんな事に注意を向けなければいけないので、自分の呼吸云々のことを考えないでいられる。仕事中は気が張っているのでむしろ大丈夫なのだ。でも仕事終わりの深夜や日曜など、独りになるときにこそこの状況はやってくる。一人暮らしで誰に咎められることもない自由をこの時に実感しながら、私は時計を顧みずに自転車でそこらじゅうを駆け抜けた。
ある時、夜中の皇居を疾走していて2周目に入ったあたりで皇居警察の警官に止められた。人生初の職質?と思ったが、彼らはまず私の自転車が盗難車ではないかと疑っているようだった。しばらくすったもんだした後に登録が確認されると警官の顔も和らいで、あまり事情を尋ねられないままで「もう帰りなね」と優しい言葉を掛けられた。私は色々としょんぼりとした気持ちで、深夜の新宿通りの無言のオフィス街の下をゆっくりペダルを漕いで帰った。
呼吸は自然のリズムを取り戻していた。
***
「そこ」にたどり着いたのもそんな疾走途中の偶然だった。
その日、私は朝から自転車に乗って、特に目的地を定めずに走ってやろうと思っていた。朝いちばんで掛かってきた母からの電話の内容に衝撃を受けて、また息苦しさに襲われていた。電話の向こうで母は泣いていた。
距離があっても、やっと逃げれたと思っても、家族の問題はどうしても追いかけてきて私は捕まってしまうのだ、と絶望した。
私は夢中で自転車を漕いで、自分と何のつながりも関係もない街や人々を眺めることに集中した。足を止めると、意識が問題に向かいそうになるのが怖くて必死だったのだ。
考えずにいよう。今日は立ち向かわずにいよう。
表参道の華やかな通りや、新宿の賑やかでごちゃごちゃした道をわざと選んで走った。いま思えば、対極の場所に無理にでも自分を紛れこませたかったのだと思う。
日が傾き始めて道路の街灯や車のテールランプが目立って来た。ほとんど休憩を取らずに漕いでいたので、足にもだいぶ疲れがたまっているのを感じていた。大きな交差点に差し掛かったところで信号が赤になった。左手に落ち着いた色味のレンガの建物が見える。ここが有名な教会であることは知っていたけれど立ち寄ったことはなかった。ある建築家が建てたということはうっすら記憶していた。
教会というところは全ての人に開かれていると聞いた事がある。
……入ってみよう。
信号が青に変わる前に、建物の入り口に入って自転車を停めた。
楕円型の建物の中に入り、たくさんある扉の一つを恐る恐るあけてみた。耳にふわっとガーゼをあてられたみたいに、外と中との流れる空気が違うと感じた。外の喧騒は遠くなり、天井の花型のガラス窓から薄くやわらかい光が中央にむかって降りていた。正面の壁にはキリストの姿が架けられている。真ん中の祭壇を囲むようにして配置された椅子には、何人かの人達が静かに座っていた。ある人は目を閉じ、ある人は正面を見すえながら何かをつぶやいていた。恐らく祈りの言葉なのだろう。
椅子の一番後列の端っこを選んで私も腰を下ろした。座席の下には膝がつけるように柔らかいクッションになっている。シスターが二人、互いの席を離れて座り、静かに瞑想している姿があった。祭壇の一番近くにはお年を召された紳士が一人で座っていた。子供をつれてきている外国人の家族もいた。その母親が小さな男の子に話しかけている遠慮がちな声が、密やかに反響しながら天井にのぼっていった。
私はしばらくの間、後ろから彼らのその姿をぼんやりと眺めていた。きっと咎められたりはしないのだろうけれど、邪魔にはなりたくない。ミサの時間から外れているらしいのを有難く思った。
とても静かで心地いい。
今日の母の電話や、一日夢中で走りぬけた街の景色を、温度を持たない感情のままで振り返った。思い返しても心が波立たないでいるのが不思議だった。こういう場所に来たかったのかもしれないと思った。
ひとつの扉が開いて、長い白衣を着た少年が祭壇に何かを持ってやってきた。座っていた人たちの気配に、一斉に”期待”のような別の空気が含まれたような気がした。祈りの言葉を持たない私がここに居るのが場違いであるように感じ、入ってきたのとは別の扉を押してその聖堂を後にした。
出てすぐ、廊下を挟んでまた別の扉があった。扉の上には名前が書かれたプレートが貼られてある。
(ここも入れるのだろうか。)
いつもの自分ではない勇気のスイッチが押されて、そっと扉を開けてみた。
決して明るくはなかった廊下の照度に比べても、はるかに暗い空間が目の前にあった。それが冒頭で書いた水の音のする小さな聖堂だ。
壁に十字架が架けられていなければ、ここが聖堂だとは分からないだろう。少なくとも私は分からなかった。大きさも仕様も随分違うけれど、この中に居る感覚は、以前訪れた事のある京都の大山崎にある「待庵」という小さな茶室に入った時と同じだと思った。目を閉じて、水の落ちる音だけに感覚を預けるようにする。音は四角い部屋の土壁に共鳴して柔らかくなり、四方から私に届いて来る。やがて自分が重力なく漂っているような不思議な感覚になる。
大きな聖堂で波立たなかった感情が、少しづつ揺らいでいるのを感じる。でもそれは具体的な問題への反応ではない。もっと自分の根底からつきあげてくるもので、頭や心は空洞のようにぽかんとしている。
気が付けば、私はハラハラと泣いていた。泣いているのにしばらく気が付かないというのも初めてだった。涙に気が付いてから、もっと泣いてやろうと思った。ぐぇっとかずるずるとか、しゃくりあげる気持ち悪い音も全部水の音にのせて運んでもらおう。
泣きながら(いつも一人だけれど)ここではいろいろ肩に乗っかっている色んなものからも離れることができる。独りになれると知った。
***
教会を出ると日はすっかり暮れていた。西の空の方角に、星がひとつはっきりと瞬いていた。何の星か知らないけど、帰り道の方角にあるその星を何度も確認しながらペダルを漕いだ。もう息は整っている。
またあそこへ行けばいい、そう思える場所を自分はみつけた。