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真の「ギバー」だった:盛岡で宮沢賢治に思いをはせる

盛岡と言えば、「イーハトーブ」宮沢賢治ですよね。

盛岡のいたる所に、宮沢賢治にちなんだ展示や建物、石碑を見ました。
今日は、宮沢賢治の生涯と「人となり」について、
書いてみたいと思います。

こちらに行きました。

明治期のレンガの素敵な建物でした。

なんと、見学無料でした!


宮沢賢治の「注文の多い料理店」を出版した、
「光原社」にも行ってみました。


注文の少ない童話集


光原社は、今現在は出版社ではなく、カフェやギャラリー、
民芸品などのショップを運営しているようでした。

当初の出版の仕事から鉄器、漆器、全国各地の民芸まで業態は移って参りました。現在は盛岡市に3店舗、仙台市に2店舗と営業しておりますが、いーはとーぶの夢を失わないように努力して参りたいと思います。

https://morioka-kogensya.sakura.ne.jp/index.htm

ショップ中庭

光原社と宮沢賢治のかかわりはこのようです。

大正13年(1924)宮沢賢治の生前唯一の童話集「注文の多い料理店」発刊、社名も賢治によって光原社と名づけられました。
これは、賢治と創業者(及川)が盛岡高等農林学校で先輩、後輩の縁によるものです。
二人の夢を乗せたこの童話集は残念ながらほとんど売れず、注文の少ない童話集となりました。

https://morioka-kogensya.sakura.ne.jp/sub1.html

出版のエピソードとして、このように紹介されていました。

教料書の販売が目的で、花巻学校教師の宮沢賢治を訪ねた及川の親友近森は、膨大な童話の原稿と出版の意向を告げられた。
近森からその話を受けた及川は、出版を即決してしまった。
三人とも28歳の若さである。

「注文の多い料理店」という名と「光原社」という社名が決まった。
近森が生家の事情で急に高知に帰ることになり、及川は教科書の販売で得た利益の中から印刷所へ送金をするも足りず、苦心した。
発行部数が1,000部、万が一完売したとして1,600円。印刷代金1,500円。
とても商売になる話ではなかった。

https://seishunkan.jp/collection

宮沢賢治は37歳という短い生涯でした。
生前に出版されたのは、童話集『注文の多い料理店』と、詩集『春と修羅』の2冊のみだったそうです。


農業にかかわり続ける


宮沢賢治は農業にかかわる仕事をしながら、創作活動をしていました。

大正4年(1915年)19歳
 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第二部に首席で入学。
 寄宿舎自啓寮に入る。土曜、日曜は登山、鉱物標本採集。
大正5年(1916年)20歳
 盛岡地方の地質の調査。秩父地方の土性地質調査
大正7年(1918年)22歳
 盛岡高等農林学校卒業。
大正9年(1920年)24歳
 盛岡高等農林学校研修生修了。
大正10年(1921年)25歳
 稗貫郡立稗貫農学校(のちの県立花巻農学校)教諭に就任。
大正15年、昭和元年(1926年)30歳
 花巻農学校を依願退職。
 町内や近郊に肥料設計事務所を設け、肥料相談や設計を始める。
昭和2年(1927年)31歳
 花巻温泉南斜花壇を作る。この頃までに肥料設計図二千枚を書く。
昭和3年(1928年)32歳
 稗貫郡石鳥谷で肥料相談に応じる。
 (12月:急性肺炎になる。)
昭和5年(1930年)34歳
 病状やや回復し、園芸に熱中。
昭和8年(1933年)37歳
 病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談に応じる。
 (9月21日死去。)

https://www.city.hanamaki.iwate.jp/miyazawakenji/about_kenji/index.html

自然と農業を愛した賢治は「小岩井農場」に何度も訪れ、
農場を舞台にした詩や童話を書いたそうです。
小岩井農場に「詩碑」がありました。

すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう


「ギバー」だった


有名な「雨ニモマケズ」は、
35歳で病床に臥せっていた時に手帳に記された「メモ」
世が知るのは、宮沢賢治がこの世を去ってからでした。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決していからず
いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い

日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず

そういう者に
私はなりたい

https://news.mynavi.jp/article/20230428-2667728/

同じ頃、死を間近に感じ、遺書を書いているそうです。
そんなときに書いた、誰に見せるでもない「メモ」。

野を愛し、感受性が強く想像力豊かで、夢見がちな青年だった宮沢賢治。
そして、真の「ギバー」だったのでしょうね。

37歳という若さの、おそらくは無念だった死。
しかし、宮沢賢治はずっとずっと私たちの心に生き続けます。

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