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40年前の高校生だった私たちへ

高校の同窓会に12年ぶりに出席しました。
かつての高校生は、40年経ったいま
立派なおじさんおばさんになっていました。

そこで感じたことを書いてみたいと思います。


40年経ったかつての高校生たち


私は青森県出身です。
その中でも、特に田舎の出身です。
高校には、自宅から列車で一時間ほどかけて通っていました。

同窓会は、4年に一度のオリンピックイヤーに開催されていましたが、
前回はコロナで中止、前々回は欠席したので、
私は12年ぶりに出席しました。

「(人に)会える時には、会っておこう」
と思いました。

一学年8クラス、一クラス45名の計360名のうち、
出席者は70数名だったようです。

雰囲気の全く変わらない人、
変わりすぎてどうしても一致しない人、、

色々です(笑)

かつての担任の先生も、数名出席してくれていました。
一番先生が変わらない(笑)


あれからどうした?


かつての担任の先生(みんなNちゃんと呼んでいた。男性、御年83歳)は、
同窓会に毎回出席してくれています。

私は、40歳の頃に行われた同窓会で、
Nちゃんと卒業以来初めて再会しました。

Nちゃんは私を見た途端、こう言いました。
「〇〇さん(私)、あなたどうした?」
「一級建築士取って、設計の仕事してます(その時まだ設計をしていました)。」

「そうか、一級建築士取ったか。初志貫徹だ。
大学行けばいいのにって、ずっと思ってたんだ。
大学行かなかったのに、よく頑張ったなあ。

定年まで、おそらく何千人の教え子がいるだろう中で、
そんな風に気にかけてくれていた
涙が出るほど嬉しかったのを覚えています。

これには後日談があります。

当時の同級生で、今も仲の良い友人に、
私はこう言いました。
「Nちゃんさ、そんなに大学行けばいいっと思ってたなら、
もっと強く言ってくれればよかったのに。」

すると友人は、
「言ってたよ。Nちゃんすごく言ってた。」

聞く耳をもたなかったのは、私だったようです。。


みんな、自分の人生を生きてきた


みんな立派になっていました。

地元に残った人は
学校の校長とか
ハローワークの局長とか

地元を離れた人は
大手企業に勤めていたり

私と同じく一級建築士をとって、
建築の世界で仕事をしている人もいました。

肩書がどうこうではなく、
みんなそれぞれの場所で、
40年もちゃんと生きてきたんだなと思いました。


お世話になったんだ


みんなが、高校を卒業後どんな進路に進んだかは良く知りませんでした。
同じクラスだったS君が、Nちゃん(しつこいけど、先生ね)に言いました。

「Nちゃんには、卒業の時お世話になったんだ。
自宅浪人したから、世界史を何を勉強すればいいか、教えてもらった。
K先生には国語を、S先生には英語を。」

「自宅浪人してたの?」

今となっては、誰もが知る大手企業に勤めています。


身に着けたものは奪われない


Nちゃんがこの席で話してくれたことがありました。
Nちゃんは7人兄弟の末っ子だそうです。

「父は、結構な資産家の家に育ったが、
戦争で焼け出されたり戦後の接収で、ほとんどすべての財産を失った。」

お父さんは、息子であるNちゃんによくこう言っていたそうです。

「お金なんてものは貯めたって、いつなくなるかわからない。」

海外のインフレとか、政治情勢でまるっきり変わったりするでしょ、と。

「しかし、自分の身に着けたものは誰にも、絶対に取られない。」

そして、7人全員を大学まで出したそうです。
今現在83歳の人の時代に、しかも大変な田舎での話です。

さらに先生は、こんな話もしてくれました。

まだ若い頃、お姉さんが不治の病を患い亡くなった話から、
「とにかく健康でいないと」と。

「健康で、自分で生きる力があれば、
お金なんてなくたって、どうにだってなる。」


みんなちゃんと生きているよ


私は大学に行けなかったことについて、
ずっと境遇を恨んでいました。

でも、自宅浪人する覚悟は、私には無かったな。

青森の片田舎で育った私たち。
それぞれの場所で、ちゃんと生きてきた私たち。

簡単に「親ガチャ」とか「地域ガチャ」とか言っちゃいけないな。

40年前の私たちに言いたい。
「大丈夫、みんなちゃんと自分の力で生きているよ。」


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