死ぬほど寒い道東でSL乗ってきた【道東-20℃紀行録 #3】
今年も1/6が終わりを迎えたんだなと突然気付いて、時間の流れの早さに呻いてしまう日々を過ごしている。春休みが2ヶ月もあるなんて天国かと思っていたのに、もう半分終わったなんて残酷にも程がある。春休みは結局コロナウイルスに振り回され、今日から行われる予定だった集中講義は藻屑の泡となって消えた。自分が所属している大学の入学試験も、2年次に進級する際のガイダンスも中止となったので、次は1学期が消えるのではないだろうか。
さて、まだコロナウイルスの話が中国国内だけのことであり日本では大事になる前の頃、僕らは北海道でも東にある知床にいた。春休みのような長期的な休みが刹那的に消えてしまうのは、日々の充足感から生まれるものだと僕は思っていて、この道東旅行は充足感の極みと言っても過言ではない。新千歳空港を発ったあの時からの48時間は楽しさの連続だった。そして48時間という時間を凝縮しているかのようだった。僕はそれを少しでも忘れずにいるため文章という媒体に残している。この文章を非公開にすることがあったとしても、完全に抹消することはおそらくないだろう。
ちょっと余計なことを話しすぎたけれど、いよいよ#死ぬほど寒い道東旅行 最終日。
#死ぬほど寒い道東旅行 最終日
朝7時、目覚めとともにカーテンを開ける。そこには真っ白な海が昨日と同じように広がっていた。このシーズンも雪は少なく、流氷も平年よりは遅れてやってきたとのことだが、無事稚内や根室まで流氷は到達したようだ。こんな陰鬱な時期ではあるが、流氷のコンディションは良いようなので北海道民には足を伸ばしてほしいという気持ちもある。
厳寒期で吹雪いてもおかしくない季節にも関わらず、この3日間大きく天候が崩れることもなく最終日の朝を迎えることが出来た。やっぱり僕は何だかんだ晴れ男なのかもしれない。
今回の旅行でお世話になった、いるかホテルのチェックアウトを済ませて標茶駅行きのバスに乗る。標茶町は道東の中心部、網走と釧路のちょうど中間くらいにあると言えば何となくの位置が想像できるだろうか。
本当はレンタカーで移動したかったけれど、ウトロにも標茶にも営業所が無いので仕方がない。道東ではレンタカーを借りられる街が限られるので、旅行計画を立てる際は慎重に組むことをおすすめする。
今回乗ったバスは標茶に向かうまで、2つの景勝地を巡る半観光バスのようなものだった。ウトロを出てからほどなく、少し長いトンネルを抜けて1つ目の景勝地「オシンコシンの滝」へ到着した。
今年は暖冬(といいつつ-10℃以下)だったので全面結氷することは無かったが、年によっては結氷することもあるらしい。思っていたよりも大きく迫力があり、知床の雄大さを最後までまざまざと見せつけられた。この文章では伝わらないが、水の流れ落ちる音は冬季の水量が減少している時とは思えないほどで、会話する声量も少し大きくなった。
滝までの遊歩道は積雪によって階段が消失し、角度が急な坂になっていた。手すりを伝いつつも滑降のような形で停留所に戻る。
程なくして再びバスは走り出す。進行方向右側には、流氷で覆われたオホーツク海が広く見えていた。僕はここでふと気づく。一昨日の夜、真っ暗で街灯1つ無かったあの道路は太陽の出ている時間だとこうも見た目が変わるのか、と。実は今走っている国道334号線は、知床半島北部を海沿いに走る絶景路線だった。僕らはこの旅最後の流氷を目に焼き付ける。
斜里に戻ってきたあたりで流氷とお別れを告げ、一路南下して標茶を目指す。このあたりは農地が広がり、冬には地平線まで広がる雪原を見ることが出来る。北海道らしい雄大な景色は、四季とともに移ろう。夏に道東を訪れたときは鮮やかな緑の葉と澄んだ青空のコントラストが目を盗んだが、冬になると葉は全て雪に覆われて真っ白な大地と空が広がっている。同じ場所でもこうも姿を変えるのかと気づいた今、北海道は二度三度同じ場所に訪れてこそだと思った。
峠を越えたあたりから、窓を越して伝わる硫黄の香りが漂い始めた。川湯温泉近くの硫黄山から流れているようだ。僕は硫黄山に夏も訪れているので半年ぶりだったが、ここも雪によって様相は大きく変わっていた。
硫黄山の山体に近づくと、ボコボコと沸騰している音が聞こえる。湯が足元から噴出しているのだ。足下には黄色い流れが出来ていて、水分中にも多量の硫黄を含んでいることがわかる。
硫黄によって黄色く染まった山には常に硫化ガスの煙が立ち込めている。風向きによって山体は煙の後ろに隠れてしまい、その全貌を見ることはなかなか出来ない。
半年ぶりに火山国日本ならではの景色を堪能したあと、再びバスに乗って1時間程度、バスの揺れからくる眠気に耐えかねてうとうとしているうちに僕らは標茶駅に辿り着いた。
ここからは列車に乗り継いで釧路駅へと向かう。わざわざ内陸部に位置する標茶駅から列車に乗りかえるのは、SL冬の湿原号に乗車するためだ。2000年から毎年冬にだけ運行していて、今年で20周年らしい。
黒い車体からもくもくと煙が出ている。時折大きな警笛を鳴らしていて逞しい。機関車の向きが普段想像するものと逆になっているが、これは列車が車とは異なり簡単に転回できないためである。釧路から標茶に向かう行きの列車は「普通」の向きでやってくる。そのあと機関車だけを切り離し、客車の前側に移動させて、一番後ろだった客車に連結させているのだ。
車内には懐かしのダルマストーブが設置されている。正直僕らのような年齢になると、ダルマストーブは懐かしいというか知らないのだが、一周まわって新鮮なものであった。途中で車掌がだるまストーブの中に石炭を入れていた。この客車の煙突からは黒い煙が出ていたことだろう。
標茶駅を出発してからは、釧路湿原のまん中を通っていく。ここに線路を通した先人たちの努力は凄いものだなと思いながら、出発前に客車内の売店で買った特製のプリンを頬張り広大な湿原を眺める。
途中の茅沼駅でタンチョウに出会った。冬の釧路湿原はタンチョウが飛来することで有名だがタンチョウが見られない時もあるらしく、今回はラッキーだった。機関車が発車する警笛の合図とともに彼らは西の方角へ飛び立っていった。
茅沼から東釧路駅の間にかけては、エゾシカも相当な数を見ることが出来た。下の写真、中心やや左にエゾシカが数頭写っているのだが見つけることはできるだろうか。
100分間のSL紀行はあっという間で、湿原を眺める間に終点の釧路へ着いてしまった。そして、夏の湿原にも訪れようと心に誓った。
釧路駅はめずらしく、線路に垂直なかたちで駅名標が垂れ下がっていた。ここ以外で見たことが無いのだけれど、こういうパターンの駅は他にあるのだろうか。
そして、写真から推測出来るのだが釧路はこの時それなりの雪が降っていた。前日から天気予報を何度か確認し、この旅の最大の鬼門はここかも知れないと頭の片隅にはあった。僕らは行きと同様に帰りも飛行機で帰る予定を立てており、釧路空港から丘珠空港に向かう最終便の予約を取っていたのだった。しかしこの天気だと飛ぶか怪しい。一つ前の便と僕らが乗る便は返金の対象になっていたが、一つ前の便は定刻通りに離陸している。
ここでひとしきり悩んだが、僕らは確実に今日中に帰るため飛行機の予約をキャンセルし、釧路から特急で札幌に向かう決断をした。
そう決めたらもう札幌に向けて進むだけだ。ホームに軋む音をたてながら入ってきた特急に乗り込んで、4時間の長旅を耐える。ヘッドマークにタンチョウがあしらわれていて、ここでも釧路に辿り着いたことを実感する。
コンビニで移動4時間を耐えるためのお菓子を買って、半分弱の席が埋まった車内へ行く。結局釧路から帯広の区間では天候が悪く、外は真っ白、何も見ることが出来なかった。こんな中でも定刻通りに進む特急が頼もしい。
帯広を越えた頃にJALのサイトを確認すると、僕らが乗る予定だった飛行機は天候不順のため欠航となっていた。もし僕らが飛行機は飛ぶだろうと釧路空港へ向かっていたら、零下20℃の釧路に置き去りになっていたと考えただけで、暖かいはずの車内で身震いを起こしてしまう。
古典的なカードゲームであるUNOを無限に遊び倒して3時間半、車内アナウンスで「次は南千歳」と放送が入る。体が椅子の形に硬直しかけていた僕らは、ここでようやくいつもの場所に帰ってきたんだと認識した。
この3日間はひたすらに異世界へやってきたかのようだった。同じ北海道にありながら、札幌では出来ない体験を沢山した。凍った湖の上でワカサギ釣りをしたり、流氷の上を歩いたり、湿原の中をSLで進むようなことは、どれも冬の道東でしか出来ないものだった。
3日間の非日常を十分に楽しんで、僕らは札幌へ帰ってきた。北海道に来てから1年、この旅は「冬の北海道とは何か」の答えとなるようなものでもあっただろう。
そして僕は夏の北海道も遊び倒そうと決めた。折角北海道にいるなら、ここでしか出来ないことをするしかない。札幌2年目の今年も楽しみだ。
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