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偶然の音楽、読了の感覚。

 The Music of Chance / Paul Auster 1990
『偶然の音楽』(ポール・オースター/柴田元幸訳 新潮文庫)

 うまくいかないのが人生。そして実質太宰。

 ポール・オースターの小説を読むのは『ムーン・パレス』以来だった。

 今回は贖罪の物語だと思った。

 ジム・ナッシュは父親の遺産が手に入ってアメリカじゅうを旅する。そして偶然出会った行き倒れの賭博師ジャック・ポッツィを助ける。そして彼に賭けてみることにして大富豪とポーカーをする。という危うい前半パートがある。
 父親の遺産……ポール・オースター自身のことかなとまたしても思わずにはいられない。妻と離婚して閉塞感漂う彼の人生に光が差したように思える。娘を姉に預けて、あてのない旅に出る。自暴自棄にも見えるが、過去との決別をしようとしているように見える。
 それはよくわかる話だ。
 仕事を辞めて休みだったときに僕も車で旅に出たものだ。お金はある程度はあるけれど収入はゼロだから増えない。毎日働いている人々を横目に気ままに旅をする。失うものなどないから最強だぜと思う反面、持たざるものだからなにかの拍子に湖にドボンかもしれないぜ。世間のしがらみから逃れられて清々した開放感とともに漂う背徳感。それは、みんな真面目に働いているのに俺は……という恥ずかしさにも似た背徳感である。でもやはり自由を手にした高揚感がまさるのだろう。
 だから正常な判断ができない。
 謎の行き倒れの男に賭けてみようと無謀なこともしてしまう。

 後半パートではポーカーに負けた二人が返済のために石を積む仕事をする。野原に閉じ込められて石を積んで壁を作る。
 それを贖罪だと感じたのは、前半パートの背徳感を僕自身が強く持っていたからだろうか。自由を享受した罰としての石を積む労働。そして石を積むというモチーフは、賽の河原を思い起こさせる。死んだ子供がたどり着くところだ。この小説では死んだのは父だが、その遺産で世を捨て旅に出るジム・ナッシュは、ある意味では死んだ子供なのだ。まっとうな人生、まともな生活、そういった平均的な幸せと呼ばれるものから脱落したジムはきっと死んだ目をしている。僕のように。世間の期待に答えられなくてごめんなさい。周りから見たら道を踏み外しているように見えるだろう。でもそういうふうにしか生きられない。そんな危なっかしい生き様のなかにジムは喜びや希望を見出していたように思える。
 暴走している自分を誰かに止めてほしいという無意識の思いがおそらくあって、それがジムを破滅の世界に導いた。ポーカーに負けてもいいとどこかで初めから思っていなければ行き倒れの男に賭けたりしない。無茶な賭けなことに気づいているのだから、罰だって受け入れる準備がある。どっちに転んでも、もはやまっとうな人生などどこにもない。ネットにあたって跳ね上がったテニスボールがどちらのコートに落ちるかわからない問題と同じである。

「あんたほんとに狂ってるんだな、知ってるか? 狂ってるとは思ってたけどまさかここまでとはな」

p.182

 この小説を読むと、ジム・ナッシュはわりかしまともで賭け事で生活していたジャック・ポッツィの方が狂っているように見える。最初はそう見えるように書いてある。でも真に狂っているのはジムの方である。彼の歪みは妻に去られたことだったり、父の不在だったりそういった背景がある。それがすべてではないだろうが。逆にジャックは自分の信念をもって生きているのでタフだった。父と同じように。あるいは父の影響で。ジャックの父(と思われる人物)のセリフを引用する。

『金を使わずに持ってるなんて、間抜けのすることだぞ』
『金なんてただの紙切れなんだ。箱なんかに入れといたってなんの役にも立たんぞ』

p.72

 いつしかジャックはこの父の教えに従って(?)ポーカーで生活をしていた。ある意味では筋の通った生き様だった。
 ジムは車ひとつでアメリカじゅうをふらついて何も考えなしに生きていた。大きな違いである。
 ふらふらでぐちゃぐちゃだった彼の人生を正すには、強制労働は都合が良かった。でもそれを受け入れてしまえるというのはやはり狂っているのだろう。
 ジムはジャックの父のようなタフガイにはなれなかった。そうなりたいという憧れがあった。そんなタフガイは、ポール・オースターの小説によく描かれる繊細な心の持ち主とは正反対の存在だった。だからこそジャックに惹かれたのだろうか。いい加減に生きているように見えるけれどタフな心根をもっているから。まともに生きているように見えていい加減なジムに自分を投影してしまう読者はきっと多くいて、そこがポール・オースターの人気の理由だろうと思う。太宰治の作品を読んで自分のことが書かれていると多くの人が思うのと同じように。つまりポール・オースターは実質太宰治なのだと僕は思った。
 タフになれない自分の心の弱さを感じる。同時に、悪態をついたり未熟に見えるジャックの方が弱そうに見えるけれど、そうやって自分をさらけ出せないのが我々の弱さだとも感じる。
 終盤に、憎むと決めたマークスに対して親愛の念を少し抱いた自分を軽蔑する心の動きが描かれるけれど、これも心の弱さなのだ。自分の決意が揺らぐ。『ハンターハンター』でクラピカが、怖いのは死ではなくこの怒り(同族の緋の目を奪った奴らに対する復讐心)が風化してしまうこと、というようなセリフがあるけれど、まさにそれと同じで人の心の弱さをうまく描いていると思った。

 突然話は変わるけれど、あとがきでアメリカを移動するというモチーフはよく用いられると書いてあった。なるほど、そういう視点は指摘されないと気づかないものだと思った。あるいはそれが当たり前というかそういうものだと思っているので深く考えないということもあるのかもしれない。
 広大なアメリカの大地が舞台なら端から端まで移動したいと思うものだろうし、この小説に描かれている謎の富豪が存在しても不思議ではないと思える。西部開拓時代もロードムービーも、アメリカだから様になるのだろう。アメリカ人の無意識下に移動したい衝動があるのだろう。憧れてしまうよな。

 意味深なタイトルについての考察? そんな野暮なことは俺はしねぇよ。

 終

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縁川央
もっと本が読みたい。

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