朱喜哲×渡邉康太郎『人類の会話のための哲学』刊行イベント at 青山ブックセンター
2024年3月31日(日)に、哲学者の朱喜哲氏とコンテクストデザイナーの渡邉康太郎氏による対談イベントに行ってきました。だいぶ遅くなってしまいましたが、ふたりの思想の重なりが非常に面白かったので、イベントの感想を書いていきたいと思います。
◼︎私が触れた朱喜哲氏の著書
私は、100de名著『偶然性・アイロニー・連帯』で初めて朱喜哲氏の著書に触れました。(『偶然性・アイロニー・連帯』はリチャード・ローティの著書ですが、100de名著では、その本について朱喜哲氏が講師として解説を行っています。)知っていたわけではないのですが、SNSで『偶然性・アイロニー・連帯』というタイトルを見て、「絶対買わなきゃ!」と思い近所の紀伊國屋で購入し、2月に読んでいました。
読んでいるとローティの思想をこの薄さ読みやすさにまとめるのに、かなり悩まれたことが想像されました。期待を裏切らず面白かったので私が印象に残った部分を紹介したいと思います。
私たちが使う言葉は、偶然に満ち溢れているものです。たまたまどこかの本で拾った言葉、歴史的にそのように使うようになった言葉‥‥。同じ感情を表現するにしても十人十色の表現が生まれることは想像に難しくないと思います。
十人十色の表現は、「真実」という一つの解答に辿りつくための道具ではなく、その差異に注目することで、複数の理解を認めていくための偶然性であると主張しています。
ローティは、偶然性を認めるためのスタンスとしてアイロニーが必要であると述べています。アイロニーとは単に皮肉という意味ではなく、「常に別様の表現がありうるのではないかと自らを疑う」態度を指します。
私たちは、その時々に応じて自分の感情や考えを最も適切に表現しうる語彙(=ファイナル・ボキャブラリー)を使いますが、その「ファイナル」の語彙でさえも更新可能性に開いていく必要があります。朱氏は、その上で、そのような場の形成が課題であると指摘しています。
この指摘は哲学的、政治的な問いであると同時に、ビジネスでもすぐに応用できそうな問いだと感じました。特に最近話題の心理的安全性と親和性が高そうな印象があります。いずれにせよ、本質主義は訂正不可能性であり、他者との会話を遮断する態度であるということが述べられています。
すこし抽象的な話になってしまいましたが、ボキャブラリーにおける訂正可能性とは何か?を表す好個な例が載っておりましたので紹介します。
2022年2月から始まったロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、メディアを通じてその土地のことを少しづつ知り、日本での呼び名が「キーウ」に変化しました。今までよりもウクライナに対する解像度が少し上がり、私たちの語彙が変化した例として取り上げられています。このことは、ウクライナに住む人たちの生活を少しでもおもんばかる意識の現れであり、「われわれ」が少し拡張される過程であると考えられます。
ここまで見てきたように、ローティの主張は、アイロニーというスタンスで言葉の偶然性を認めることにより、常に自身を訂正可能性に開いていくこと。そして、全てが再記述に開かれているからこそ、他者の参画を許容し、連帯の可能性が広がるということになります。哲学的であるものの、明日からの日常生活にもすぐに持ち込めるような、実践的な思想であると感じました。
◼︎Podcastでの渡邉康太郎氏の活動と著書
さて、ここまで長くなってしまいましたが、渡邉康太郎氏についても簡単に触れたいと思います。
私が渡邉康太郎氏を知ったきっかけは、Podcastの番組である「超相対性理論」と「Takram Radio」です。普段の仕事で車に乗ることが多いのですが、基本的にはこの二つの番組を行ったり来たりしながら、何回も聴いています。かなりのファンと言っても過言ではありません。
まだ聴いたことがない方がいらっしゃれば、ぜひ聴いてみていただければと思います。もちろん渡邉康太郎氏の著書である『CONTEXT DESIGN』も読みました。
この著書の私が好きな一節を紹介します。
渡邉氏は、個人がそれぞれに持つ「弱い文脈」に注目し、作品や商品とその人との間に生まれる、主体的かつ個人的なつながりについて考察しています。もしかしたらその「解釈」は制作者が意図したものとは違うかもしれない、みんなが当たり前と思っている考えとは異なっているかもしれない、「誤読」なのかもしれない。
その「誤読」をポジティブに引き起こしていくことによる可能性を、一緒に探っていこうよというメッセージが込められた著書だと感じました。
少し似たようなところがある、二人の対談はとても面白く、年度の締めくくりと再スタートにピッタリでした。
◼︎イベントでの学び
ビジネスと哲学を行き来した二人の対談を、覚書としてここにも残しておこうと思います。
moment of truthを定量的に最大化するのがマーケターの役割。ただ、調べれば調べるほど強いストーリーが作れなくなってしまう。そこでn=1のストーリーが定性的に必要になってくる。
哲学的、倫理的な言葉の需要が2010年代の半ばから現在にかけて増加した。パーパスデザインにも求められるようになった。
一人一人の表現↔︎常識。
常識は偶然によって生まれた偏見(初期鋭敏性)。n=1である自分を騙さずに異端性を保持し続けられるか?流通しているものの再記述の過程にオリジナリティ(特別な組み合わせ)があるのではないか?
常識とのズレに考え始めるきっかけがある。
因果関係はデータにあり自動的に起こるもの。一方で理由の空間も同時に存在する。一人称の直感をデータが否定することはできない。
因果関係の中に、小さな思いつき(=gift)を忍び込ませる。
写真(=データ)↔︎シャッターをきる瞬間の「カシャコン」という体験(=理由の空間)
社会的、法的、経済的にどうかと考えるならば、倫理的にどうか?という問いも考えてよい。違和感。気持ち悪さがとっかかり。
人の話を面白がれるか?
当たり前のことを違った角度から見る。in house philosopher(企業内哲学者)。
会社のボキャブラリーの外の倫理的なボキャブラリーを持ち込むことで、新たな視点を獲得する。部署に関しても同様。他の部署のボキャブラリーは異なるはず。
人を黙らせることを目的としない。なぜなら、実力行使になってしまうから。
測れるものと測れないものをどう見るか。コンセプトに基づく新しいKPIの設定が必要。コンセプトにどれくらいコミットできるKPIなのか?という問いを持つ。
◼︎あとがき
このイベントをきっかけに、初めて青山ブックセンターに行くことができました。また似たようなイベントがあったら参加してみたいと思えるようなイベントでした。
朱喜哲さんが、この場にいる人との会話を楽しもう!という姿勢を常に見せ続けてくれて非常に楽しめました。自分も普段から他者との会話に自身を開いていくことを忘れないようにしないとなと思わせてくれました。
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