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十三不塔「三枚つづきの地獄絵」

◆作品紹介

夫の盗撮を義母にバラし、間もなくして差し向けられた殺し屋と対峙する葉香子。計算ドリルを取り上げられて発火するならず者三兄弟の末っ子バーサーカー。それから暴走族ゾクパンク集団パンクススケバン軍団レディースの大乱闘。三様それぞれの地獄が奇妙な縁でこじれねじれ撚り合わさってひとつの暴力トリロジーを作り上げる今作は壮絶なバイオレンス名古屋ヤンキー小説。血が血を洗って破壊が破壊を呼び、愉快に疾走する文体と相まって話は加速度的に暴力の激しさインテンシティを増していく。わたくし訪れたことないんですけど、名古屋ってこんな怖いところなんですか?(編・ホワイト健)

"This is a true story. The events depicted in this novel took place in Nagoya in 1995. There were no requests from survivors, and even if there were, we wouldn't change the names. We don't know anything about respect for the dead, but anyway, this story is told exactly as it happened."

A 甚目寺町・三角の家

 夫の素行が怪しかったので、こっそり睡眠薬を盛って、携帯電話の中身をくまなく調べたところ、浮気の証拠は発見できなかったものの画像ファイルの中に、とんでもない量の盗撮写真を見つけて驚くよりむしろ痙攣と眩暈とに襲われた。ネタは上がってんだと不貞を問い詰めるつもりだったのが、もっとでかいヤマが浮上したのであるから、プランというプランが狂ってしまい、終生のパートナーと誓い合った男が犯罪者で、しかも三年も同じ屋根の下に暮していたのだという現実に打ちのめされ、死斑めいた蕁麻疹が出て、パート先のドラッグストアを一週間休むことになった。離婚は大前提として、目下の問題はそう、すやすや眠るこのクソを通報するか去勢するかその両方かの三択だったが、いったんウォームアップってことですべての盗撮写真(エスカレーター下方から突き上げるアングル)を義母に送りつけてやることにした。
『お義母さん、夜分とぅいまてん。お世話になります。葉香子です。先日頂いた越前ガ二は鍋と刺身でおいしく食べました。お礼といっては何ですが、ちょっと見せたいものがあるんです』とメールを送った数十秒後に電話が鳴って、いつもなら良妻賢母ぶってチクチク葉香子にマウントかます義母が、地下墳墓から話してんのってくらい陰々とくぐもった声だったから、ちょっと哀れになったけれど、これまでの仕打ちを考えれば、ざまあねえな老いぼれがって気持ちが上回り、息子と、省吾と話させてと懇願する義母のために、夫を叩き起こしてやった。母と子の話が済むまで、葉香子は300枚にも及ぶ盗撮画像の中にノーパンのものを見つけて別ファイルに保存した。作業が終わるとまた受話器が戻される。
 息子と離婚してもいいわ。慰謝料だって言い値で払う。でも警察だけはやめてあげて。
 葉香子さん、あなただってわかってるでしょ。省吾君はね、ちょっと軽はずみというか、おっちょこちょいなところがあるけれど、根は真面目でやさしい子なの。
 とってもやさしいのよ。とってもとってもとっても(エコー)。
 お義母たま、省吾さんが優しいってのはわかりました。でも世間は変態に優しくないってことをご承知ください。あ、カニ美味しかったです。私は甲殻類アレルギーだって言ったと思うけど、そんなこと気にせず送ってくださって本当にありがとうございます。しかしよくご子息をあんなふうに仕上げましたね。もしかコツってか教育論(※1)があれば教えてくんさい――プッツーツーツー。
 切りやがったよ、あのババア。おい、省吾、てめ、どこ行った? まさか逃げ?
 篠島の出である義母の家系は元をたどれば近海の海賊みたいなものだったので、血族を守るためなら手段を選ばないところがあり、慟哭混じりの母子密談の末、嫁の口さえ封じれば万事問題ナシという結論に達したらしく、とんずらした夫は数日後代理人を立てて、おだてたりなだめすかしたりしてなんとか葉香子を篭絡しようとしたものの、もちろん人間としての最後の良心を死守した彼女だったから、とうとう命を狙われることになった。十代の頃からオーソドックスな暴力には慣れていた。とはいえ、義母は三河湾のシチリア島とでも言うべき故郷から殺し屋紛いの連中を送り込んでくるに違いなく、だから葉香子もふんどしを締め直さないとヤバいって感じになり、最後の出勤で必要な物資を手に入れておこうと久しぶりにドラッグストアに出たら退勤間際にちょうど手頃な車をヒッチハイクできたので、ひとまず盗撮画像入りガラケーを抱えて逃亡することにした。
 車を運転したのは三人兄弟の愚鈍な末っ子だった。これまでの経緯を事細かに説明するのもダルかったし、なにより複雑な事情を飲み込めそうなタイプでもなさそうだったから、テキトーに丸め込むことにした。古来より本邦には虐げられた女が頼る駆け込み寺というものがあるのだ、とヤフオクで落札した御朱印帳を見せてやったら、スポンジが汚水を吸い込むいたいにすべてを信じてくれた。使命感(と下心)に駆られた少年が、寺は知らないけど安全っぽいところならと低スペックの頭をフル回転させて捻り出した避難所、それは久屋通りを抜け、市街地からやや離れた海部郡甚目寺町の空き家で、二人を乗せたグロリア(ホイールキャップ及びサイドミラー欠損)はそこへちょうど辿り着いたところだった。
 時刻は23時くらいだったはず。
 少年がチョイスしたのは、地元住民から三角の家と怖れられている心霊スポットで、映画『呪怨』の家のモデルになったともっぱらの噂だったし、数年もすれば事故物件サイトにデカデカと載ることにもなるのだったが、霊感のない葉香子の眼から見てもなかなか閑静で陰気で佇まいだった。玄関は不動産屋に封鎖されてるんで、裏のキッチンの窓からどうぞ、と三男は勝手知ったる感じで葉香子を招いた。
 三角の敷地って風水的にも最悪だってね。ねえ、聞いてる? 三角はよくないんだよ。
 ほら、ドラクエのばくだん岩の眼も三角でしょう?
 幽霊屋敷のルームツアーにかかりきりで三男は聞いていない。
 バスルームに次いで夫婦が心中したという二階の部屋に二人は踏み入れた。あ、そっちにまだ血痕が残ってるよ、なんて解説しながら少年の顔がどんどん青黒くなっていくのが暗がりの中でも察せられ、もしその夫婦ってのが首吊りでくたばったんじゃなければいいなと葉香子が思ったとき、ガチャリとトイレのドアが開いて、葉香子はヒィっとすくみあがり、中から出てきたドレッドヘアの見知らぬ男はマーニン(パトワ語で「おは」)と喚いた。
 彼が幽霊ではなく尾島だと知れたのは、おまえ誰だよ、尾島だよ、というやり取りがあったからだ。出てけよ。ここは俺がひとりになって自分を見つめ直したいときに来るとっておきの場所なんだと三男は主張する。女連れで何ゆってんの、と尾島は抗弁し、二人も三人も変らない、しばしここでシェアハウスってどうだろう? 孤独な魂がひと時の憩いを求めて集う逃れの地にしようじゃないか。おまえたちも長い逃避行に疲れたろ?
 わたしの逃避行はまだ始まったばかりだ、と葉香子は思う。
 まったく意味の分からない成り行きだったが、ひとつだけ確かなのは尾島がここの瘴気に負けぬ陽性のバイブスを放っていることで、詳しく聞いてみると北海道で末端価格2億にも届く大麻を栽培したのだが、さすがの豊作ぶりに個人仕様ではなく大規模な販路を通じて売りさばくのだと見なされ、あえなく指名手配になったのだそうだ。ほら、と自分の載った古新聞の切り抜きを尾島は取り出した。あと数時間で時効なんだ。夜が明けたら免許の更新に行くつもり。この時、車座になるが早いか三人は、尾島が挨拶代わりに取り出したハーブをパイプで回し吸いしながら、温めたおでんに刻んだマジックマッシュルームをぶち込んで、じんわりハイになったので、どす黒い霊的磁場もなんのその太陽の恵みを受けてすくすく育ったわんぱく相撲力士のような気になっていた。
 ちょうど尾島の話が佳境にさしかかったところで、インターフォンが鳴り、受話器を取ると、こんばんはピザ・バッドです。注文の品お届けにあがりました、と声がして三人は首を傾げ、とくに尾島はこの家もう電気通ってねえんだけどなぁと不思議がった。手に負えないガキがぶち込まれる日成学園という刑務所みたいな学校を脱走した在りし日の尾島は、その勢いのままジャマイカに雄飛、そこから地元の漁師に混じって船でキューバに密入国して逮捕され、はじめてハバナの留置場に入った日本人となったのだったが、その時、保釈金を払ってくれたのが――ここで話の腰は折られ、尾島は一階玄関に下りていき、なかなか戻って来ないのをみると三男もそれに続いた。
 残された葉香子は、ぼちぼち幻覚キノコの影響下に置かれつつあったが、通常の幻覚のようにあり得ないものが見えるのではなく、存在しているものが消えて見えなくなるという減算型幻覚で、あらすっきり。三角の家の屋根も消えて、夫婦の遺体が発見されたというベッドに横たわると冬の大三角が見えた。あらうっとり。みんな消えて最後に自分も消えちまえばせいせいすんな、と葉香子はやけっぱちになり、いや、わたしじゃない。じゃなくて……何を最後まで残したいのかを葉香子は考えてみる。最後にはとりわけ美しいものが残るべきだ。夫の盗撮写真の正反対にあるようなものが。
 階下で大きな物音がして、何かが起こってると葉香子は思ったが、全身に浸す気だるさが階下の異状への反応を鈍くした。彼女のマイナスの幻覚はますます進行し、屋根だけでなくラグや床までも透けていき、階下で何か争っている三者がくっきりとドールハウスの断面図のごとく見えはじめ、その代わりといってはなんだが、聴覚は黄泉の世界までも聴き分けるほどに敏感になり、夫婦の生前の声がぼそぼそと聞こえはじめたので、ヤバいキテると思った。テ・ケリ、テ・ケリ……ってなんだよ。あんたらはもう死んでるからいいかもだけど、うちの旦那は死んで当然の変態だったのにかかわらず、なぜかこっちが奴らに殺されそうになってんすけど、とお門違いにつっかかり、やぶれかぶれの気合いでもって「破ッ」と怨霊を調伏した。壁紙にはピンクの蛍光スプレーで暴走族のものらしい落書きがあって、月明りを受けて、まるでネオンのように輝くのだった。

 初代月下夜走参上

 死、㱝、殆、殃、殯、屍、㘸、㰷、殍、毙、斃、殪、殉

 空き家を訪ねてきた男はスキンヘッドで、三角形の歪な敷地の前には男が乗ってきたに違いないビザバイクが横付けされ、きっとさっき栄を抜けるときに追突されたアレだ。どさくさに紛れて葉香子を殺そうと狙った義母の手の者に違いなく、とはいえ、このまま放置しておくこともできない。スケルトン状になった家屋が、彼女には無防備に心細く感じられ、しっかりとした大地に触れたくてたまらなくなり、透けて消えつつある二階のベランダから身を乗り出して、裸足のまま飛び降りたが、空中で体勢を崩してブロック塀に肋骨を打ちつけて、夜気を引き裂くような悲鳴を上げた。
 んだよ、あの声は?
 上物すぎるハーブでヘロヘロになった三男が、不覚にもキッチン床下の収納スペースに転がり落ち、まだもがいていたから、誰にも邪魔立てされることなく中庭に回って、うずくまって痛みに耐える葉香子を見つけたスキンヘッドは、あんただな、とボコボコ喉の奥で泡立つような声で言い、腰を低くし、研ぎ澄ましたピザカッターを右手に構えたのだった。円い刃は内蔵モーターによって高速で回転する。葉香子は逃げようとするが、いきなり後ろから何者かに羽交い絞めにされて、まさかと思ったが、やっぱりそいつは尾島だった。
 さっきの話続けていいか、ハバナで捕まった俺の保釈金を友達が払ってくれたって言ったろ。それ、あいつなの。ヤツの本名は忘れたけど、みんなゲルンって呼んでたな。偶然こんなとこで会うなんてな、ときまり悪そうに言うところを見るとこいつの言葉は本当らしく、昔の恩義があるならば、たった数時間の付き合いの葉香子よりもそっちを加担するのも致し方あるまい。
ゲルンの左手には日本人形の首を握られており頬には泣き腫らした跡があった。
 ボクを知ってる君って誰だっけ、とスキンヘッドは尾島に声を投げた。
時効まであと数分の尾島だ。栄養失調の鍵っ子しかいない赤星小学校で一緒だったろ。しっかし、ゲルンがここで現れるなんてな、いつでもおまえって幸運を運んでくる。
 キューバん時も世話になったし。
 ああ、思い出した尾島くんかぁ、とゲルンは無表情かつ無邪気に首を振った。
 島に閉じ込められた人間を助けるのは当たり前じゃないか。島ってのは例外なくひどいところだよ。ああ、この首? ボクの家系ではね、生まれつき小さな歯の生えた子供が生まれると依頼を受けて人を呪う祟り屋するんだけど、彼らは一生独身でいなくちゃならない。そのために生まれたときに自分の半身として人形の嫁を娶る。それが力の源となる。でも、ボクの人形はね盗まれちゃった。だから島を追い出されたんだ。妻の人形を見つけるまでは二度と島の土地を踏めない。それまでは本土で汚れ仕事をするしかない。でもこれでよかったと思ってる。島なんて大嫌いだからさ。で、その妻に会えたのに見てよこれ。首がもげちゃってる。
 ひでえな。まったくひでえな、と尾島は深刻に眉をひそめる。
 神さま、あんたひでえよ、俺の保釈金を払った人間に対する仕打ちとは思えねえ。
 君はボクがマンションの屋上から通行人にレンガを落とすゲームにひとりだけ付き合ってくれたから本土に越してきたばかりのボクはおかげで孤独を感じずに済んだし、しかもボクよりずっとうまかった。とても上手に当てたよね。
 ゲームに負けたのはあの時だけ。
 永遠に君をリスペクトしてる。保釈金なんて安いもんだ。
 義理固いんだなゲルン、と尾島は応じながら、ガキの頃のおまえがサイコすぎて気弱な俺は誘いを断れなかっただけだ、と心中でこぼす。葉香子は全身に鳥肌を立てた。全身のブツブツが鋭い突起になってこいつらを刺し貫けばいいのにと思った。わたしを殺しに来たくせに、こんな薄気味悪い会話をしている余裕がまず許せなかったし首をこうして絡められているのだって到底我慢できることじゃない。
 首に触れられるのは葉香子にとって最強のNGだった。肛門に含水爆薬ハイジェックスをぶち込まれるよりずっとナシだ、なのに尾島は私を羽交い絞めにしてるし、ゲルンとかいうあいつは不気味な首を握りしめている。これはもう無理、ありえなさすぎるので私は私の観点からおまえをぶっ殺しましょうshowと葉香子は誓った。
 ゲルンは高速回転するピザカッターを葉香子に差し向けた。触れれば切れるカッターを大きく振りかぶる必要はなく、そっと首筋を添えるだけで葉香子はピザのトマトソースより赤く飛び散る違いないが、だしぬけに尾島の携帯のアラームが鳴って、拘束する手が緩んだ。
 やったぜ、これで時効だ!
 拘束者がガッツポーズを取り、祝いのジョイントに火をつけようとしたから、葉香子は暴れ狂う回転体を背後へと逸らし、解放感に浸る尾島自身の体液で火を消してやった。刃が掠って頬がズタズタになった葉香子は、屠った獲物の血を滴らせる猛獣のようにだって見えないことはない。あたしの首に手をかけんじゃねえよ、性感帯です、どうぞご自由にって書いてあったかよ、と葉香子は吐き捨て、かつて愛の巣だったマンションのキーを尾島の耳孔に突き入れる。
 書いてねーよ。なぜなら書いてねーからだ。
 ようやく収納スペースより這い出た三男は、そんな彼女の姿に惚れ惚れとして、ゲホゲホといがらっぽい喉がむせ返るので涙目になり、遅ればせながら加勢しようとしたが、見えない四本の手が足首を絡めとるので俯くと、痩せこけた夫婦の顔がニタリと笑っており、逆らえない力でもう一度床下のスペースに引きずり込まれた。さらに勝手に動くはずのない冷蔵庫が横倒しになり、尾島の隠した乾燥大麻20キロとともに三男を永遠に閉じ込めた。
 葉香子は、尾島の不快な悲鳴をその出所である声帯を踵で踏み塞いだ。
 てめえらったらどんどん透けてくじゃん、とキノコのエフェクトでゲルンは葉香子にとって完全に不可視になりつつある。見え過ぎるって見えないのと同じなんだね。最後に薄ぼんやりと見えたのはピザ屋に扮した殺し屋が人形の首を愛おしそうに口に含んだところまでで、そこからはキシキシと三角の敷地内にあるものすべてが振動し、やがて耳障りなハウリングだけが彼女の感受する刺激のすべてとなった。ゲルンは操り人形のようにキッチンに戻ったが、錆びた包丁を手にしたときには欲情に似た全能感に満たされており、奥歯で人形の頭をかみ砕くと、まずは自分の腹部を二度刺し、その痛みを万人と分かち合うためまずは盲目になった女へ飛び掛かった。

(※1)省吾の母親、つまり葉香子の義母は、名古屋市教育委員会事務局総務部教育環境整備課・子どもいきいき学校づくり担当である。著書に『育てる力は信じる心』がある。

B 港区・某ドラッグストア宝神町店

 カンッとホイールキャップの外れる甲高い音がして、小さくささやかな、しかし大切な何かが欠けたのだと直観する。銀色の輝部を失った黒のグロリアは、ヘッドライトを消せば、溶けるように夜に馴染み、軽やかに速度を増して、滑るというより跳ねるようにガタガタと疾走してゆく。アルミの円盤が脱落したのは、さっきの曲がり角の縁石にリアタイアを擦ったせいだろう。スモークガラスの内側、後部座席の三男は数学のドリルを覗き込んでブツブツとなにやら呟いている。

 三角形 ABC は AB + AC = 2BC を満たしている.また,角 A の二等分線と辺 BC の交点を D とするとき,AD = 15 である.さらに,三角形 ABC の内接円の半 径は 4 である.このとき以下の問いに答えよ.

  (1) θ = ∠BAD とするとき sin θ の値を求めよ.
  (2)なにもかもを最悪BADとするときsinの値を求めよ.

 ガキの頃から札付きだった兄たちと違って三男は真面目で神経質な性質だったにもかかわらず、勉強どころか学校にもろくに通っていない兄たちよりずっと低能で、一桁の数字の計算でさえひっ算で解くという有り様だったから、いまだってドリルが一向に捗らず、イライラと眉間をヒクつかせ、十分も前から煽ってきやがる年代物のシボレー・カプリスに重油めいた発火しやすい殺意を抱いた。兄たちは門倉兄弟よりも門倉三兄弟と呼ばれたほうが据わりがいいので公認会計士になるのが夢だという弟を連れ回している。
 一方、三つの角がぜんぶ鋭角な在り得ない三角形になるのが兄たちの夢だ。名古屋の港区は東京のそれとはまるっきり違うくて、殺伐となだらかに落ちくぼんでおり、あらゆる場末の夢やら希望やらの残骸が漂着する。兄ちゃん、後ろの連中ありゃなんだ、何曜日のゴミだ、と次男は気だるげに呟きながらチェーンで半ば施錠されたドラッグストアの駐車場にバンパーを突っ込んだ。無口で猪首の長男は車を飛び出した。次男は、ゆっくりとドアを滑り出て、背後にべったりとつけて駐車したカプリスのバンパーを足蹴にすると、それを合図に二人のブラジル系の少年が降りてくる。
 っねえだろがよ。っねえのはてめえだろ。てか、っねえっつってんだろよ。
 そのうちひとり眼を血走らせて日本刀を担いでるのは、豊田の保見団地から流れてきた少年院上がりのヴィニシウスで、シナモンをかけた揚げバナナの匂いを漂わせ、標準語になり損ねた音節を喚き散らす。一方、門倉兄弟はブラジリアン柔術の茶帯をもっていたから、両者は互いに文化盗用して睨み合っているというわけで、数学ドリルの三男は、できればこいつらみんな死なせてやってくださいと神なる内接円に祈った。
 弾け飛んだプラスチック製の鎖――駐車場を区切るそれは黄色くて、歯並びの悪い長男の前歯の色にそっくりだったし、三〇秒後に打ち砕かれる奥歯の方も同系色だったから、きっとヴィシニウスの本日のラッキーカラーはイエローだったのだろう、と社宅の抗争で撃たれて右ひじが曲がらなくなったエンゾはニヤつきが止まらなくなってしまう。北海道から流れてきたグロワーから仕入れた大麻がどうやら効きすぎたらしく、生まれつきニヤついた顔がますますだらしなく弛緩し、曲がらなくなった右ひじが今度は伸びなくなりそうだったが、懲りずにきつく巻いたジョイントに火をつける。
 カーレースじゃイエローフラッグが出たら追い越し禁止だだだだだだだだ。
 刀を振り回したヴィニシウスは日本人の歯をへし折って、ボタボタとアスファルトに血が滴るのを見ている。刃引きとはいえ、押し込みで手に入れた居合用のものだったから、まともに当たれば死んでいてもおかしくなかったが、エンゾをニヤつかせている極上のクサ(インディカ種)でヴィシニアスも相当キマっていたこともあって刃筋がブレた。門倉長男はポカンとした表情を浮かべたまま、裂断した頬から歯茎をむき出しにしたまま、錆びた棒杭みたく立ち尽くし、エンゾの咥えた煙草を取り上げて自分も吸った。一服してどうしてこうなったか思い出せ。
 そもそもなんでこいつらは――そうだ、俺たちが19号を車線変更してこいつらの前に出たらブチキレて追いかけてきやがったんだ。確かにちょっとばかり強引な割り込みだったかもしれない。でもよ、ポン刀で口裂け女にされるほどのひどい割り込みだったろうか。
 んなことねえよ、ねえって。
 確かに強引に割り込んだあげく、助手席の弟が窓から中指を突き出したけれど、だからって問答無用で斬りつけられる筋合いはないはずだ。まあいい。とにかくこいつらをぶちのめそう。ぶちのめすんだ。そのあとできっちり話せばいい。言語や肌の色が違っても話せばわかる。ぶちのめしたあと話せばわかってくれる。ニヤニヤしてるエンゾに長男が頭突きを入れるのと時を同じくして、次男はヴィシニウスの睾丸を握りつぶした。
 悲鳴といっしょにカラカラと日本刀が駐車場のアスファルトに転がり落ちる。血だまりもそばにある。ここはドラッグストアだ。化粧品から食べものまでなんだってある、しびれを切らした三男は車を出て、兄たちのいざこざに背中を向けて、閉店間際の薬局に入った。いくら人気のない駐車場の隅っこだからって、あんなふうに馬鹿騒ぎしてりゃ、いつ通報されてもおかしくはないし、そうなれば一緒に捕まってしまうことだってあり得なくもない。
 三男は兄たちに必要になるかもしれないと消毒液とガーゼと絆創膏をカゴに入れて、レジに並んだのだったが、隣じゃ同じ年齢の少年が、コンドームとコンソメチップスと化粧水の支払いをしているのを見て、こいつと人生を入れ替えたいと激しく嫉妬せずにはいられなかった。年中酒に酔ってる柄の悪い港湾労働者たちのたむろす荒んだ町内に生れ、イカれた双子の兄が祭りのたびにサラシと法被で神輿をかついで隣の町内と変り映えのない抗争を繰り返すのをずっとずっと見てきた。中学を卒業するころになれば、毎年の攻防のかいあって兄たちの覇権は揺るぎないものになり、隣接する4つの街の不良どもを束ねて悪名を轟かせることになったから門倉の末子である三男には善悪の境も定かではなく、家じゃお馴染みの野球賭博をクラスで広めたのが露見するまで自分の境遇の異常さには気付かなかった。
 轟音とともにブラジル人らの車が店内に飛び込んできた。自動ドアのガラスが粉々に砕けるわ、カートはひっくりかえるわ、マスカラの棚は横倒しになるわ、つまりてんやわんやの大混乱で、あちこちで客どもはざわめき、凍った表情をぶら下げて、黒い闖入物を遠巻きに囲んだ。
 ボンネットに乗り上げていた次男がごろりと落ちた。
 左の手首から先が皮一枚でつながっているだけだったが、なんとか生きていた。切れ味の悪い日本刀でやられたのだろう。これはガーゼや絆創膏じゃなおせそうにない。いっそ殺せばよかったのにどうしてこんな生殺しのような目に合わせるんだろう。いや、トドメを刺すために轢いたに違いないが、それだってしくじっているし、しくじりの埋め合わせをするためにエンゾもまた満身創痍(前歯全壊・肘脱臼)でグズグズだ。
 三男は他人のふりをしようとグロリアから持ち出したドリルをパラパラと開いて考えるふりをし、なんならそれで顔を隠したのに次男が目ざとく弟を見つけて名を呼ぶのだから、とてもじゃないけどスルーってわけにもいかず、マジで息の根を断とうとブリブリに据わった目付きのエンゾの視界に捕らえられてしまう。ロックオンされて三男が、恐怖というより人生のすべてに大いなる失望を抱いたのは、つまりいくら実直につつましく生きようとしても、この手のくだらねえクズども(家族とか)に引き込まれてしまう自分への底なしのがっかりでもあった。
 エンゾが三男のドリルを取り上げて引き破って、おまえ仲間かと訊ねるので、食い気味でそんなじゃねえと応じたつもりだったが、じっさいに声は出ておらず、床に叩きつけられたドリルの残骸を見るにつけ、艶消しの虚無感に塗り潰された三男は、蚊が詫びるような小声で、あーもう、としか発声できていなかった。
 あーーーーーーもう。
 あーーーーーーーーーーーもう。
 あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーう。
 てめえらは、させねえつもりだな。
 は? なんだって、とブラジル人が聞き返す。
 俺を公認会計士にさせねえつもりなんだ。非公認の流しの会計士にさせるつもりならまだしも、タニシとイワシも見分けられねえ沖仲士にさせるつもりか、と三男は宇宙の冷徹なオーダーを理解した。そうだ、キレろ、と半死半生の次男が叫んだ。そうだ、何もかもぶち壊してスッキリしちまえ。これまで三男が我を忘れてキレたことは三度だけあって、最初は正月の集まりで泥酔した本職の叔父を小三で半殺しにしたときで、コロコロコミックの付録を焼き芋の焚火に放り込まれたのが発端だったのだが、なんやかやで家も半焼した。あとの二回(ひとつは静岡のサファリパークで起きた)は兄たちにとっても絶対に思い出したくない悪夢(長男の後頭部の傷がポリネシアのドラムビートみたいにうずく)だったし、当の本人だって完全に脳のリミッターが外れたせいで記憶には残らなかった。
 三男は門倉の兄弟のワイルドカードであると同時に最悪の疫病神でもある。ただし、兄たちとしては暗い道に引き込もうと連れ回しているのではなく、この災害じみた弟を解き放ってしまわないようにたずなを握っているつもりだった。それなのにこの愚鈍で危険な弟は自分だけがまともな小市民だと思い込んでいられるのだから笑わせる。
 いやいやいや、笑えねえ。末っ子が世も末とかって嘆いてバカがよ。
 そう考えたのは門倉の兄たちではなく、エンゾだった。エンゾもまたヴィシニウスが長男である自分と違って末っ子であることからくる傲慢さが気に入らなかったが、そんな考察だか回想だかを悠長に繰り広げる暇などなく――なぜなら、当のヴィシニウスは姿を駐車場のどさくさで姿を消していたし、いまここでは門倉の三男が言い知れぬムードを放ちはじめていたから――ただ内臓を抜き取られていくような不安感を襲われた。相手が恐ろしい腕力を持っているというわけじゃない、そうじゃない。むしろ自分がひどく脆弱で弱々しくなってしまったみたいで、この感覚はなんだろうとTHC(※2)とエンドルフィンとで鈍麻した頭で考えたけどわからなかった。試しに顔を殴りつけてみても、やっぱり相手が岩のように硬いというのではなく、ただ自分の拳が段ボール細工であるようにひしゃげた。
 三男にだってわからない。雑誌の付録のペーパークラフトを縁側に並べて、想像の世界に浸っていた小学生の頃、恐竜とスペースシップとロボットの工作はまるでどこまでも真実味を帯びていき(というより野卑な現実世界の方が臨場感を欠いていき)、三男はすっかりあっち側に没入したのに、それが一瞬で酔った叔父の足に踏み潰された。踏み潰しただけでなく紙屑となった三男の世界をそのまま火に投げ込んだ叔父だったが一切悪びれることなく、ゴミ散らすな、フンと鼻を鳴らして宴会に戻っていったあの時――そうだ、あの時三男にとって世界はひっくり返った。逆上したわけじゃない。認識が逆転したのだ。強固に思われたこの世界は丸ごと脆く壊れやすい紙絵芝居となった。たやすく握りつぶしてしまえるし、火をつければ燃え上るのだと信じられた。
 気が付くと三男の指先は叔父の頬肉の障子紙のように突き破っていた。その姿は、日本刀に顔を抉られた今夜の次男そっくりで、ひどくグロテスクかつ退屈だった。失敗した折り鶴を丸める手つきで三男は叔父の四肢をグシャグシャにした。絶叫を聞きつけた母親が膝から崩れ落ち、兄たちは弟の受け入れがたい正体を見たが、暴力的な人種はそれを受け入れる抵抗を大幅にカットし、流線形の物分かりのよさで途轍もなくシンプルな結論を導き出す――こいつは化け物だ。十年前の兄たちの述懐は、いまやエンゾのものでもあった。
 こいつは化け物だ。数学ドリルで梱包しておかなくてはいけなかったのに、暇つぶしの気まぐれで俺らは得体の知れねえもんを引き当てちまったんだ、と脇腹をくしゃりとあっけなく潰される激痛の中でエンゾは後悔し、なぜかオールタイムベストのお気に入り映画『ドラッグストア・カウボーイ』のシーンを思い出した。あれはドラッグ欲しさに薬局を襲撃する若者たちの物語で、しかし舞台はこういうんじゃなくて、もっとちゃんとした調剤薬局みたいなところだったな、そうだ薬剤師に処方箋を出すようなちゃんとした――そうだよ、ちゃんとしろよ、エンゾの遠のく意識を引き戻すように三男は囁いた。
 ちゃんとしろよ、おまえらみんなちゃんとしろよ。資格試験を受けたり、公務員になったり、毎日2リットル白湯飲んだり、なんでそういう真っ当な人生設計ができねえんだ。紙屑がよ。こいつは紙屑だが、ザラついた叔父とは質感の違う紙だった。
 叔父が古新聞の束なら、こいつはミシン目の入ったケント紙みたいだが、どっちにしろ燃やしてしまえば同じ灰になるだろう。すでに灰になったかと思えるほどにエンゾの顔は蒼白で、軽くひっかいただけでビリリと破れた。細かくちぎれば紙吹雪になる。
 ここでフィナーレだ。お開きだ。チャンチャンだ。
 と、まさにエンゾを紙吹雪に変えようとしたそのとき、さっき隣に並んでいた少年はレジの店員にバーコード読み取り機(※3)で殴られ、そのパートの女は強烈な尿意を催したみたいに三男に駆け寄ってきて、最高、逃げようと促した。

(※2)「Turtles Hate Cauliflower」(カメはカリフラワーが嫌い)
 
(※3)ピッ128円。

C 栄・伏屋通り

 クラブ・KARAKARA亭は三度目の(そして最後の)営業停止処分の引き金となるトラブルに見舞われていた。それというのも店の前にたむろしていた客のパンクスが飲みかけのコロナビールの瓶を車道の暴走族(二代目月下夜走ムーンライト)に投げつけたからで――先に族の方が罵声で挑発したという説もある――その潰れたライム入り放物線の帰結として、あっという間に総勢40名を超える大乱闘へと発展したのだった。前者はナイフと特殊警棒を、後者は木刀とでもって、最終的には敵味方も定かならぬほどもみくちゃになり、血と吐瀉物とガソリンは1:7:13の混合比でぬかるんで、スズキXJRとホンダCBXとマーシャルのギターアンプ用スピーカー等が轟轟と燃えさかり、それが隣接店舗にまで延焼しかけ、市街地だということもあり5台もの消防車が出動する事件となるのだったが、そこからわずか数百メートルのところを門倉の末弟は、見知らぬ女を助手席に乗せて、気の抜けたドライブにうつつを抜かしていた。実家の庭で燃えたペーパークラフトを思い出しながら。
 君が紙吹雪、フィナーレって言ったじゃん、その瞬間思ったの、と女はポーチから蛇腹の冊子を取り出して見せたが、三男にはそれがいったいなんなのか皆目見当がつかず、キレ散らかしたあとの虚脱感でチルい感じになっていたこともあり、はかばかしい返答を返すことなどできず、ただ次のように言った。
 計算ドリル?
 は、違うし、どー見たって御朱印帳じゃん。
 ああ、あれね、と知ったかぶって三男は頷き、本屋にあんなの売ってたっけか、と上の空で淡く記憶を巡らせるのだったが、地元の書店の棚でかろうじて思い出せるのはコロコロコミックとドリルだけだ。コーラルのマニュキュアが剥げかけた薬局の女は三男にもわかるように説明する。これは寺社で貰える、ようするに記念のスタンプみたいなものなんだけど、わたしがやってんのは西国三十三カ所巡礼なんだ。四国のお遍路って知ってる? 知らないオッケー。とにかく次でとうとうラストで、あとは岐阜の華厳寺ってとこでフィナーレ。フィナーレか、三男は漠然とオウム返しにした。
 あれ、あっちの空明るくない?
 ずっと気付いてたけどさ。火事っぽ。
 赤信号で停車した三男がぶっきらぼうに言うと、窓ガラスをコンコンと叩く音がして、手廻しのウィンドウを下ろしたそこにはオートバイに跨った特攻服(三河遠州連合女連の刺繍)の女が二人乗りで並んでおり、三男を通り越して助手席の女に声をかけた。
 あんたさ、この先通行止めになってからさ、回り道しなよ、なんかゾッキーと小汚ねえバンドか知んねえけど、んな感じの連中がやりあってっからさ……はっ、あたしらはこれから両方ともぶっ潰しに行くとこじゃんね。余裕だらぁ。
 ありがと、と三男が応じようものなら、特攻服の女の顔面はドス黒く変色して、あ、てめえに話してねえ、殺すぞ、と凄まれる。どうやら男というものは透明人間として完全な保護色を纏っていなければいけないらしく、ひとまず息を止めてみた。気がつけば、総勢20台にならんとする女連スケレンというレディースチームのご一行はグロリアを取り囲んでおり、信号は青になったのに、この一群がちっとも動かないので、後続車はおそるおそる左右に割れながら目線を遥か先へ固定し、危うきに近寄るべからずって素振りで通り過ぎていく。
 そのとき、ガタンと後部座席の方が何か大きな音がして、三男はレディースにバンパーを蹴られたのかと思ったが、そうではなく、なぜなら彼女たちも驚いていたからで、なんだなんだと口々に騒ぐ女連を特攻隊長らしき金髪鉢巻きが目力とアクセル音だけで制したのだった。おい、誰かトランクに拉致ってんのかよ。ゴトゴトと確かに内側で誰かがもがく物音がする。いえ、知らないけど、と言いかけると、てめえにゃ聞いてねえっつってんだろが。男のくせしていい度胸かよ、あ、チンコなんざぶら下げてる半端者のくせにいっぱしに根性あんだらぁ、あーそーなのか。んだらぁ、と木刀でサイドミラーをへし折りつつ、ますます三河弁で詰められるので恐縮しきりの三男は、もじもじと股間に左手を置いた。
 すっかり数十分前の暴れっぷりを失念した三男は、また静かな生活を求める好青年という自己認識に立ち戻っており、バーサーカーモードのスイッチが完全にオフ(というか賢者モードがオン)になり、素敵な暴力衝動(及びその残滓)も感じられない。
 もうこれくらいにしてください。人の恋路を邪魔する輩は馬に掘られて死んじゃうよ。
 助手席の女は三男の耳が確かならそう言ったし、レディースの方たちも同じ意味の言葉を聴き取ったはずだ。よい意味で耳を疑いたくなる文言だったが、このさいもうどうでもいいと三男は口を挟まず、ああ、そうそうと首をぶんぶんと縦に振って粗悪な脳をシェイクした。シェイクついでに笑みを浮かべれば、さわやかなテニス部員に見えないこともない。
 どうやら特攻隊長らしき短髪のレディースが、いったんトランク開けろや、何入ってっか確認したら行かせたるだらぁ、とガツガツとドアを蹴り、三白眼をきょろきょろさせて唾を吐く。木彫りの――と助手席の女が言いかけ、木彫りのなんだよと四人のレディースが左右から追い込みをかけ、テキトーなこと言ったらただじゃおかねえぞって雰囲気でグロリアをプレスしたが、三男はゆっくりと車を前進させながら、木彫りのカーネルサンダースです、とまことしやかに助手席の女が言うのを聞いた。そう確かに聞いたのだ。カーネルサンダース人形じゃなくてカーネルサンダースその人なんだな、木彫りの?
 特攻隊長がおそるべき秘密を知ってしまったとでもいいたげにゴクリと喉を鳴らすと、後輩のレディースたちの間にも、本物かよ、やべえよと動揺が拡がり、感受性の豊かな一部の眼から涙が浮かんだ。ぶろろろろろろろろん、あ、総長お疲れ様っす、とただものではない排気音とともにアフロヘアの女がそこへ現れた。カーネルサンダースの話を聞くと冷たい緊張とともに、千壽子、おまえらあたしをナメてんの、それともこいつらにナメられてんの、どっち、なぁ、どっちなんだらぁ、あ? とかって肘を入れられた。
 猛り狂った総長の金属製のアフロ櫛が三男の眼球すれすれのところでピタリと待機。小水が少し漏れた。漏らさざるを得ない。バイクに跨っているとはいえ、総長のタッパは190センチ近くあって、中一の頃、高所から落下したレンガを頭に受けた事故で、頭蓋の一部が陥没してしまい、それを隠すためのアフロだったから髪型については絶対に言及してはならず、そこをイジった連中は漏れなく人生の一部を陥没させられた。また鼻っ柱は獰猛そうにねじ曲がっており、アクセルを握る手には数多の人間を懲らしめた拳ダコがあり、横目でチラりと眺めるだけでゾッとするのだったが、三男はズルをするようにグロリアをそろそろと進めつつ、どんどん混迷を深め、わけがわからなくなるこの夜全体にひそかに腹を立てた。
 ガンガンとカーネルサンダース(仮)がトランクで暴れるし、こいつらに足止めされて全然好きなように走れないしで、イライラが頂点に達し、無意識に三男はそろそろまたすべてを紙屑にしたくなってきたが、うだうだ言ってねえでさっさとトランクを……と言いかけたアフロ総長が硬直したので、なんだろうと頭の芯が冷え、ふと左を見ると、薬局から来た女は涼しい顔で枝毛を選り分けていた。こりゃどうなってもおかしくねえな、と三男は次の荒事を覚悟したが、だしぬけにアフロはグロリアの窓に額を打ちつける勢いで低頭お辞儀したから、何かしらの風向きが変ったのかもしれない。
 パ、パパ、パカコ先輩お久しぶりっす!
 巨体のアフロが身を折り畳むようにってか、もうすり潰すみたいに小さくなって助手席の女を仰ぐと、特攻隊長千壽子をはじめとするレディース軍団も、え、三コ上で伝説の総長だったパカコ先輩? 子供の頃、首吊りの死体を目撃して以来高熱を出して数日眠り続けたあと、大人しかった性格がガラリと一変したっていう? メタンハイドレートの精製工場で爆死したんじゃなかったっけ、違うよ、弘道会にマトかけられたけど式年遷宮用の木材に隠れていったん伊勢に体を躱して、あっちで産廃業者の富豪と偽装結婚して国際精子バンクで哺乳類最強のアレクサンドル・カレリンのDNAを買って体外受精したって。
 エグいかついっしょ、と「エグい」と「いかつい」を短縮形かつ巻き舌にしてレディースたちはけたたましく論じたが、黙れ、と助手席のパカコ先輩があいかわらず枝毛をいじくりながら言うと、それを受けて千壽子という特攻隊長は、パカコ先輩が黙れってゆってらっしゃるじゃねえか、と手当たり次第に仲間にヤキを入れた。やめてよ、人違いだって、わたしただのバツイチ女子だし、昔のこととはあんま覚えてないしさ、あんたらみたくやんちゃで下品なド底辺の人たちとかって、ほんと絶対縁ないから。ゴキブリを見る眼つきで古巣のレディースたちを睥睨したパカコ先輩。対するヤンキーどもは、神域で下馬するサムライのごとくバイクを降りてグロリアに平伏した――その瞬間、三男とそのご一行がKARAKARA亭にさしかかったところで、背後からやってきたピザのバイクが平伏していた連中を轢きながらグロリアにカマを掘り、その衝撃でトランクが開いた。
 飛び出したのはヴィシニウス――と桐の箱だった。
 きっと兄がボコしてトランクに積んだんだろうブラジル人は新鮮な外気をたっぷりと吸い込んで、腹腔を戦慄かせ、まるで見慣れぬ場所で目覚めた子供のように心細げに身震いし、片目から流れた血はすっかり固まって、あちこちで燃えるバイクや酒瓶の距離感を狂わせる。桐箱は門倉の兄たちが先輩から預かった盗難品で中身はといえばカーネルどころか古ぼけた日本人形で、持ち主は死んだかパクられたかのどっちかで、いまやその蓋は外れて、露わになった体躯がアスファルトに奇跡的に直立し、揺らぐ炎光のせいか腰まである黒髪がうねうねと波打って見え、ガラスの瞳に映るすべての乱行に満足しているみたいにサディスティックな含み笑いを浮かべた。それと似た笑みを湛えた女連の総長はピザのバイクから下りたスキンヘッドの男を一瞥するや、ずっと探していた人間だという狂おしい確信に心臓が弾け飛びそうなほど興奮する。
空から重たくて硬いものが降ってきそうないい夜だらぁ。
 継ぎはぎだらけのクラストパンクは、敵の援軍だと思ったのか、ねじり鉢巻きの特攻隊長に飛び掛かり、ナイフで耳朶にスリットを入れたが、黒塗りの木刀で胸骨が陥没するほどの突きを食らって30秒間呼吸を停止し、臨死体験のトレーラー映像をチラ見し、ヴィシニウスの足元に転がったあげく、鋲とパッチだらけのジャケットに唾を吐きかけられた。

 こうして自然状態では人は人に対して狼となる。
 万人の万人に対する闘争――トマス・ホッ……

 教え子を飲みに誘ったもののホテルは断られ不貞腐れ、通りすがりにさりげなくスカそうとした中京大学の助教授はスキンヘッドに髪を掴まれ「ホッブブブブブブブブッブズ」と叫びながら焼けたエンジンに押し付けられた。リヴァイアサンはボクだ。ピザ屋は漏電したスロットマシンのボタンに触れたみたいな衝撃を感じ、振り返るとそこにアフロヘアの女を認め、なけなしの理性ともともと微量だった共感性(顔も忘れた誰かの保釈金を立て替えてやったのが最後だ)さえもかなぐり捨てて理由もなく哄笑する。かつてない飢え、それはどこかの地下食品庫パントリーに通じている。そこには燻製の保存食がどっさりあるはずで、海の巨獣であるボクは煙を吸い込むようにすべてを食い尽くすだろう。
 人形の動かぬ口が「……っよぉ……いどしいしと」と囁いた気がした。巨獣というよりも故郷の島の古い血筋に使役させられる痩せた猟犬でしかない男もまたずっと探していた運命の相手を見つけ出したので平静ではいられず、おおおおと呻きながら、ふわりと彼女の方へ踏み出したとたん三男の運転するグロリアにバックで轢かれ、ホイール径17インチのタイヤと、総長のブーツのソール双方のトレッドパターンを刻まれた。一方、焼けるような痛みにヴィシニアスがうつむくと、総長のアフロ櫛が下腹部に埋没するのが見え、かつそれをダイアルのように捩じられたので、熱性の痛みはむしろ鈍く冷たいものへと変化し、足の力が抜けて自分より何倍も小さな人形にしなだれかかるように倒れてしまう。
 べぐぁしゃ。
 ああ、揮発性のゴミ屑野郎どもがいつもいつもいつも俺の邪魔しやがる。
 三男はほとほとうんざりしながら歯軋りをする。助手席のパカコ先輩は満願成就へゴーと御朱印帳をペラペラめくりながらご機嫌に鼻唄を歌っては、不気味な振付けといっしょに時折白眼を剥くのだったが、そのアヘ顔が三男にはどストライクで、アフロ総長が刺青だらけの男どもの指をポッキンアイスみたくへし折って高笑いしてるあたり(4分前)からもう好きといっていい感情を抱いており――いや、すでに愛と形容できるゾーンにまでアクセルをベタ踏みにし、馬鹿ならでは一途さで、好っきゃねんと思った。なんのために巡礼なんかすんの? と聞けば、あー供養かな、とパカコ先輩は言うので三男は恐ろしくなってそれ以上は立ち入らないことにしたが、そんなときほど人は親切に口を開くものだった。わたしと仲違いしたヤツって、大抵首くくって死ぬんだよ。不思議だよねー。
 最初はママだったよねーもーすぐ元旦那もそーなるよねー。
 でも君は大丈夫、ずっと仲良くできそうだし、あ、わたし葉香子、よろしく、とまたパカコ先輩は白眼を剥き、三男は路上の汚物をなるべく踏まないように混戦エリアを抜けた。バックミラーを眺めると、ようやくパトカーが雪崩れ込むなか、みんなぶっ倒れているか、ぶん殴っているかのどっちかで、あいつらはドリルとは縁のない人生を送るのだろうなと憐れみの視線を鏡越しに投げる。
 行こう、逃げるなら、とっておきの場所がある、三角の家ってとこ。
 なにそれ? かすかな予感のようなものに触れて葉香子は言った。ここれは彼女がいつも見逃してしまう、ささやかだが決定的な分節点かもしれない。そっちじゃない。三角は嫌いだった。盗撮画像の仄暗いスカートの中でパンティが三角形に浮かび上がっていたからだけじゃない。カットしたピザだって嫌いだった。わたしたちはずっとずっと気の遠くなるほど昔っから不幸な三角形に閉じ込められている。だからさ、もうクソを喰らわせないと。そっか、としばしの沈思ののち三男は、生腐れの荒くれの群れを縫ってハンドルを切り返す。
(3)三角形ABCを裂開させるに充分な剪断応力シアーの値を求めよ.
 三男に天啓を与えるドリルはもう失われてしまった。巻末の解答もない。わかった。じゃ行先を変えよう。三男は家族で行ったナイトサファリを思い出した。ねばねばする夜の中でたくさんの生き物の眼が光っている。兄たちとのドライブも本当は嫌いじゃなかったけれど、彼女とのそれは格別で、ひとたび会話が途切れると、二人はちょっぴり意味深に見つめ合ったりもした。ハンドルを切り返さなかったヴァージョンのグロリアは不吉な三角形に向かって走り続ける。バックミラーの中でだんだんと小さくなりつつあるヴィシニアスといえば、アスファルトに血液と体温を奪われながら、生れてはじめて安らぎを覚えた。エンゾはどこにいったのだろう? スゲーいい感じだってのに、どうしてあいつはスゲーいい感じのときに限っていねーんだ? 二つの暴走族とパンクスたちは、すでに三つ巴の乱戦となって、ただでさえ燃え盛っていた一帯はとめどなく過熱し――スゲーいい感じなんだ――混ぜ物だらけのネタ食って悪酔いしたモッシュピットの渦か、辺境のシャーマニズムダンスか、ともかくなんだかよくわからねえ何かの1:7:13のアマルガムとなってガタついた排水溝の縁から吹きこぼれた。

◆作者プロフィール

十三不塔(じゅうさんふとう)
第8回ハヤカワSFコンテストにおいて『ヴィンダウス・エンジン』でデビュー。「火と火と火」(『SFアンソロジー新月』Kaguya Books)、「絶笑世界」(大森望編『ベストSF2022』竹書房)「至聖所」(『2084年のSF』早川書房)、「チェインギャング」(『AIとSF』早川書房)など。最新作はSFマガジンに掲載された『八は凶数、死して九天』
ほかにも、お芝居の脚本やゲームシナリオなども手掛ける。

*次回作の公開は2024年3月13日(水)18:00を予定しています。

*本稿の無料公開期間は、2024年3月13日(水)18:00までです。それ以降は有料となります。

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