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介護視点から観る『アメリカンフィクション』  ~リアルな親の介護問題 VS フィクションとしての黒人像差別~


連載:老いとサブカルと私とは

 介護をしています。両親が二人とも認知症です。母はかなり認知症が進み介護施設に入っていて、父は現在進行形で認知症です。子育てをしながら、親のお世話もしていてるのですが、最近はそういうのをWケアというらしいです。認知症って本当に大変なんです。親の衰えを見ているのだけでも悲しい上に、着替えさせたり、食べさせたり、おしっこや、うんちのお世話まで、子育てとほぼ同じことを“親”にやらなければならないんです。
 子育ての事はこんなに大事なことなのに学校で教わらないのもどうかと思いますが、介護や親の老いについてもどこかで学んだり知る機会があったら良かったなと思いました。親が元気なうちはわざわざそんなことを勉強しようなんて思わないですが、いざ介護が始まってからでは遅かったりもします。
 そこで思ったのは今まで作られてきた、小説や映画や漫画で“老い”はどう描かれてきたのかという事です。おじいちゃんやおばあちゃんの描かれ方や、介護の描かれ方も時代によって変わってきていると思います。例えば、認知症の事を昔はボケ老人と言ったり、痴呆症と言ったりしていました。痴呆は阿呆の「呆」ですから、明らかにバカにしている感じが昔はあったんです。これは不登校を昔は「登校拒否」と言っていたのと似ていますが、呼び方が変わるということは世の中の価値観や認識が変わってきたということなのです。
 その老いに対する価値観や眼差しが、はたしてサブカルでどう変化してきたのか?またどう描かれてきたのか?そんな事を自分の介護の経験を踏まえながら語ってみたいというのが「老いとサブカルと私」という連載です。


 今回はアカデミー賞脚色賞を受賞して日本でも話題となっている『アメリカンフィクション』について介護の視点から見てみたいと思います。あらすじは以下です。(ネタバレを含みますのでご注意ください)

あらすじ: 作品に「黒人らしさが足りない」と評された黒人の小説家モンクが、半ばやけになって書いた冗談のようなステレオタイプな黒人小説がベストセラーとなり、思いがけないかたちで名声を得てしまう姿を通して、出版業界や黒人作家の作品の扱われ方を風刺的に描いたコメディドラマ。(映画.comより引用)

 映画評論系のYouTubeをいくつか聴いたり、見たりしました。この作品は様々なテーマが描かれていて、黒人差別が大きなテーマなのですが、それについて言及したり指摘している評論は多くありました。しかし、実はこの映画は、差別だけでなく大事なポイントが“親の介護”だと僕には見えました。というのも、主人公のモンクがヤケクソで“不幸な黒人要素”を詰め込んでペンネームで小説を書き上げるきっかけとなるのは、大学を問題発言でクビになりお金がなくて、さらには母が“認知症になり高額な介護費が必要になる”からです。なのでこの作品は親の介護と黒人差別との対比の物語なのです。

介護あるあるがいっぱい

 僕も介護をしているのでわかるのですが、介護あるあるがいっぱい描かれていました。
 親が認知症をうまいことごまかす。これは本当によくあります。この映画でいうと姉の別れた旦那の話をするシーン。娘が離婚したことを忘れるなんてありえないから絶対に認知症なんですけど「ちょっと勘違いしただけよ、はははは」とうまいことごまかすんですよね親は。また、親の認知症を子どもが認めないのもよくあります。主な介護者の主人公のお姉さんなんですが、普段の変な行動から認知症かもと心配しています。しかし、モンクは物忘れは歳を取ればよくあることだと、認知症を受け入れません。大きな事件が起きるまで、小さな変化は受け入れられないものです。
 また、だいじな時に限って事件が起きるのもよくある。モンクが彼女といい感じになっている時にお母さんがいなくなり近所を徘徊します。他にも打ち合わせの時に救急車がきたりとか。これは取り越し苦労でしたが、仕事していたり大事な時に限って、親がおしっこを漏らしたり、どこか行って帰って来なかったりはよくあります。とにかく介護中は何か起きるかもしれないと常に緊張している状態だし、仕事や自分のやりたいことが突然中断(こういう言い方はしたくないですが、思う存分できないので、「じゃまされる」という気持ちになってしまいます)されることが、自分の体験でもしょっちゅうあります。

みじめな黒人像に限りなく近くなっている主人公モンク

 主人公のモンクが憤っているのは、白人が思う黒人像というのはそれがフィクションだということ。黒人だからといって、誰もが貧乏でドラッグをやり、ヒップホップをやって、みじめな人生ではないということ。そして、モンクはその白人も見下しているし、実際の貧困層の黒人も見下している。
 しかし、大学を追い出され仕事が首になり、姉が病気で亡くなり、かわりに認知症の母の介護をしなければならなくなった。家族もいない、金もない、介護をするのは自分一人。これって、かなり苦しい状態ですよね。ドラッグこそやっていないですが、みじめな黒人像に限りなく近い状態に結果的になっています。
 見下してヤケクソになって黒人キャラを演じているようで、実際はみじめな黒人そのものにモンクはなっているんです。途中で参考に見ていた50セントの映画で、貧乏からヒップホップでのし上がっていくのと同じ事を、ニセ作家になって黒人小説を書くことでやっているんです。しかもその小説は爆売れして、ハリウッド映画化まで決まるのですから。
 ここで大事なのは、黒人差別のことはそれを逆手にとって割り切って小説にできるということです。しかし、親の介護に対する気持ちは割り切れない。老いと認知症は、貧乏だろうが金持ちだろうが、黒人だろうが人を差別しないのです。

黒人像差別は割り切れるが、家族の問題は割り切れない

 誰かの評論の中でハートウォーミングな家族のシーンとあったのですが、僕には黒人差別のことよりも家族のシーンの方がある意味怖く見えました。亡くなったお父さんは浮気していてたけど、モンクだけは知らなかったとか。認知症になっていても、母から死んだ夫は孤独だったと冷たい目で見ていたことを告白され、あなたも同じよと突き放されたり。家族全員医者で一人だけ芸術系のモンクはそこにはあまり居場所がなかったみたいですよね。
 また、ゲイの兄もせっかく久しぶりに母に会いにきてダンスをしていたら「あんたゲイじゃないわよね?」と突然言われてしまう。子どもがゲイということを認めたくないという本心が、認知症にもかかわらず急に表れてきて兄は傷つきます。これらを見ると誰にとってもあたたかい家族ではなかったとわかります。相手が認知症なだけに訂正したり話し合ったりができないのでどうしようもない、一生分かり合えることもない。どんよりした気持ちになるけど、それも現実なんですよね。 
 私も子どもが発達障害でその子育てはとても大変だったのですが、それを自分の親にも理解して欲しかった。でも認知症になってしまったので、そのことはわからずじまいです。
 黒人の物語を読んで免責されたいという白人の欲望を逆手にとって、ステレオタイプな黒人小説を書くことができるくらいには、差別についてはモンクは客観視できるのです。自分では最低な作品だと自覚した上で、お金のためには割り切ることができる。これはメタ視点をもつことができるということ。メタ視点を持てるというのは、ある意味冷静なんです。

つらさが極まるとコメディになる

 でも、家族の問題はメタ視点がもてない。それがリアルなんです。亡くなった父との関係、認知症になった母との関係は、もう修復しようがない。それは客観的になんて見れないんですね。そういう意味で、~リアルな親の介護問題VSフィクションとしての黒人像差別 ~の対比の物語にこの作品はなっているのです。つまり、この映画は「現実は小説よりも奇なり」ということを言っていると思いました。介護や家族の問題は、ステレオタイプな黒人小説よりも、複雑で常識を超えてくるのです。介護問題は重くどんどん迫ってくるけど、黒人差別はある意味ネタとして作品にすることができるということです。
 そしてこんなに悲しい話なのに映画としては全体がコメディ調で笑えるというのが味わい深いです。悲劇が極まると人間は喜劇になり笑ってしまうものです。僕も親に対して「おしっこもらしてたね、やっちゃったねーははは!」とか「息子の名前は忘れたけど、孫の名前が一文字だけギリ出てきたね、ははは」とか悲しいことなのに笑える時があります。それは、つらいことをなんとかやり過ごす人間の術ですよね。
 ラストのゲイの兄がモンクを車で迎えにくるシーン。ギクシャクした家族だったけど、最後に残された兄とは、喧嘩もしたけど少しわかりあえて、ジョークを言って車が発車していく。そこがほろ苦くも、人生笑って進むしかないという気持ちになりました。

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