Saññā 知ろうと意図する心② ルアンポー・プラモート師
(つづき) もしも、私たちが真実を知らないのならば、心は好むものを探し回る様に心が回転し、好まないものから逃げようと心が回転します。ただただ回転し続けるのです。終わりがないということを知らないのです。回転すればするほど、その分だけドゥッカ(苦)になるのです。修行したいということでさえ間違いのです。善くなりたい、楽を得たい、静けさが欲しい。ですから私たちは心のトレーニングを努力するのです。五戒を守る、これは心にサマーディ(集中)が生じるための土台なのです。すると私たちはサマーディを土台に心に力をつけ、その力で智慧を高めることが出来るのです。
ですから私たちが行っていることは五戒を守る、サマーディ、パンニャー(智慧)の事なのです。パンニャーとは正しく知ること、正しく理解すること、生じたものは滅すると理解することです。もしも心がこのことを認められるならば、喜びに浸り込み、あれこれと生じる事に浸り込むことは無いのです。悲しみに浸り込み、死ぬこと、あれこれと失うことに浸り込むことは無いのです。心は中庸にあるのです。
心が十分に真実を知ったとき、世間を握りしめた手を緩めるようになるのです。この世間というものは生じたものは滅して無くなるだけなのです。感動するようなことは何も無いのです。激しく取り合って死ぬ思いをしても結局無くなってしまうのです。在ったものは無くなるのです。心がこのように理解すると厭離が生じてきます。この世間で執着しているものを手放すようになるのです。世間と呼んでいるものはルーパ(名)・ナーマ(色)、身体と心の事に他なりません。真実を少しづつ集めていくのですよ。身体は良いものではありません、特別素晴らしいものでもありません、身体にはドゥッカ(苦)しかありません。苦が大きいか小さいかだけなのです。心は良いものではありません、特別なものではありません。苦しかありません、苦が大きいか小さいかだけなのです。少しづつ観ていくのですよ。最後には智慧が生じてくるのです。(つづく)
仏暦2564年12月17日