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正しく修行する ルアンポー・プラモート師

どんな修習も結局は同じなのです

どちらの方が良いとか

どちらの方が悪いとか

そのようなことは無いのです

正しく行うということが肝心なのです

もしも基礎が誤っているのならば

どのように行ったとしても

活かすことはできないのです

しかし

正しく行うことが出来たならば

自分自身の心に

気づきを間に合わせるのです

どのような方法でも良いのです

どのような修習の方法でも構わないのです

ですから

まず初めに

沢山、沢山訓練するのですよ

これはやらなければならない事ですよ

いずれかのやり方で修習をしなければなりません

幸福感を呼び起こすために行うのではなく

心を鎮めるために行うのでもなく

良い状態になるために行うのでもありません

私達に感覚がある事を感じることが出来ように

目覚めさせるのです

心が考えごとに浸り込んでいる時

感覚がもう無いのです

心はそちらの方に引かれていって

感覚が無くなってしまうのです

ですから

もしも

今世で解脱したいと思うのならば

みなさん全員

修習をしなければなりませんよ

いずれか一つの修習を行うのです

そして

自分自身の心に気づきを間に合わせるのです

気づきを間に合わせるのは

2種類だけで十分なのです

ボーっとしない、対象にぴったりと張り付かないということなのです

ボーっとしていない時というのは対象にはまり込んでいる時なのです

ルアンポーがスワンフォート寺にいた時に

修習を学びに来た人の事です

ルアンポーは

ボーっと浸り込まない事、そして対象にぴったりと集中して張り付かないこと

を教えました

座る瞑想を好む人には

このことを見て

どうでも良いことを教えていると

笑いました

しかし

この部分が

コツなのです

自分自身を修習させるのですよ

心がボーっと浸り込んだのならば

そのことに気づきを間に合わせるのです

心が一つの対象にぴったりと集中するのならば

そのことに気づきを間に合わせるのです

そのようになるのならば

どの修習も同じなのです

そこから私たちが得られるものは

心が定まる

ということなのです

正しいサマーディの状態になるのです

仏歴2566年4月29日


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