
慈悲(メッター)とは理解すること
先日、気づきのサーラーを運営されている浦崎雅代さんの法話会(気づきのサーラー)でスカトー寺のお坊様であるサンティポン師とご質問者さんのやり取りで慈悲について大変心に響くものがあり忘れないうち書き残しておこうと思います
慈悲の瞑想は仏教瞑想を実践する人にとってなじみになっているかもしれません。慈悲を自他に向けて念じるのです
私は幸せであります様に 親しい生命が幸せであります様に 生きとし生けるものが幸せであります様に(テーラワーダ協会)
しかしすっきりとしない心の壁にぶつかっていた気がするのです
心に入ってこないというか、心から念じられなかったり、なんとなく形式ばったように感じることもあったのです
しかし
サンティポン師は「他者を私と同じように苦しんでいる友人と思ってください」と仰るです
タイのお経にも毎日念じられる慈悲のお経はこういう一節から始まります
サンティポン師が引用されたこのお経は
生きとし生けるものは 生・老・病(痛み)・死 に苦しんでいる友人達です
とはじまります
隣にいる人も
親兄弟であっても
子供や妻や夫など家族であっても
だれもが生老病死に苦しんでいるという共通点があり
苦(ドゥッカ)を共有する友人ということなのです
すると
理不尽に私に怒鳴っていた人も
「あーちょっとイライラして苦しいんだろうな」とか
「そういう立場なら怒るのは良くないけど、気持ちは理解はできるよね」と相手を理解し共感の心が芽生えてくるのです
相手を理解すると不思議と反射的に怒りや欲や悲しみに染まていた心が不思議と静まるのです。そして相手に憐みが湧いてくることすらあったりするのです
「相手を自分の身に置き換えて理解する」ということは
慈悲(メッター・カルナー)を育てていくうえで第一歩なのではないかと
思ったのでした
私達を解脱まで導いてくれる
四聖諦の一番目は苦を知るでした
他者の苦を自分に置き換えて知る
また
他者の苦から自分の中にある苦を知る
ということなのかなと思ったのでした
サートゥ・サートゥ・サートゥ