何の為に修行するのか? ⑥【ヴィパッサナーをする為のサマタのやり方】
ヴィパッサナーをする為のサマタのやり方
(⑤続き) サマタの柱となるのは サティを捨てないことです。サティを持ち続けるのです。心が集中する時もサティを持って心を集中します。サティが生じたり途切れたりの集中ではないのです。修習中、身体を絶えず知っていき深く集中していくのです。それは身体が消えるまで集中していくのです。呼吸も消えて身体も消えていきます。この世の世界もすべて消えてなくなっていきます。やがて心だけが一つ残りますが、それでもサティは保っているのです。心だけがそのように目立ったように残るのです。しかし身体も肉体も忘れなてはいないのです。
なぜこのように目立つよう心を浮き出させるのでしょうか。それは次にヴィパッサナーをする為に必要だからです。ある人はなぜ禅定に達しても何も起こらないのでしょうか。プットー、プットーを続けます少しずつ観ていくのです。プットーは知る心に入って行く事なのです。集中する心が生じてくるのです。このようなやり方は使えます。呼吸をただただ続けていきます。息が出ていき、 息が入ってきます。 すると身体が呼吸をしていることが観えて来ます。観る人の心があるのです。このようにすることをヴィパッサナーに繋げる為のサマタのやり方と呼びます。呼吸をするとそれを知る人観る人の心があるのです。お腹の膨らみ縮みを観ていきます。身体が膨らみ身体が縮むのが観えるのです。観る人の心があるのです。
仏道でのサマーディ(定)を学ぶ項目でブッダはこのような言葉を使いました。”チッタシカー: Citta-sikhā ”これは心が観えるようになるまで定(サマーディ)をつくる事です。知る人、観る人の心が立ち現れるまで定(サマーディ)をつくることです。心が立ち現れるとは"観る人"、"知る人"になるという事なのです。ヴィパッサナーに進む為の用意が出来ました。ですから、サマタをする人は誰であれサティを途切れさせてはいけません。呼吸をすると身体が呼吸をしていると観える、観る心があるのです。呼吸をします、知らぬ間に考え事が浮かんできます。心が乱れていると知ります。もう一人それを観ている心がいるのです。知る人観る人の心が現れるまでただただ観ていくのです。このように出来るようになったならば、サマタが出来るようになったと言えるのです。
次は座ってサマーディ(定)を作ります。心が動いているのが観えます。心が立ち現れるまでただただ知っていくのです。丸く際立ったものがそのように立ち現れるとよいのです。それをヴィパッサナーに繋げる事が出来ます。私たちは修習を十分に続けていきます。プットー、プットーと、私たちはプットーは知る対象だと観えていきます。心はプットーを観る側なのです、呼吸が出る、呼吸が入ることを心は観る側の人なのです。身体が呼吸をしていると観えるまで呼吸を続けます。観る人の心は身体が呼吸していると観えるのです。知る人の心が生じるのです。
歩く瞑想をします。足を上げます、足を踏み込みます。身体が歩いていると観えます。心は知る人観る人になるのです。一瞬、知る人観る人が消えてしまうことがあります。それはサティが途切れた時なのです。知る人もその時消えてしまうのです。知る人観る人が続いている為に、サティは自分で思い起すことが出来るのです。ですから、私達は一日中、生活の中で継続して感覚を感じられるようになるまで訓練するのです。
ハマり込んでしまった時は知る人が途切れる時です。ハマり込んでいない時、知る人になるのです。時々、知る人になります。時々は考えにハマり込む人になります。時々知る人になります。時々注視し過ぎる人になります。このような中で私達は生活しなければならないのです。知る人自身も消滅を繰り返していると観えてきます。このこともただただ知っていくのです。
心に知る人観る人が現れるようになった時、この身体は私のものではないと観えてきます。身体は物体であると、身体は動き続けている要素の塊であると、様々に感受する受(vedanā)は自分ではないと観えてくるのです。幸福や苦しみなどのすべて。幸福でないもの、苦しみでないもの全ては、来ては通り過ぎて行くのです。
ですから少しづつ訓練していくのです。私達の心が立ち上がるまで身体をただただ知っていくのです。硬くこわばらせるのではありませんよ。身体を注視して知り続けることは使えないですよ。知る事とぼんやりを繰り返しながら、知ることそのものも消滅を繰り返していると観える様になるまで訓練が必要なのです(続く)
¶ 施本 ปฏิบัติภาวนาเพื่ออะไร バティバッ・ パーワナー・プア・アライ (何の為に修行するのか)より
¶プットー瞑想: プットーとはブッダの事、プッ と念じながら息を吐き、トーと念じながら息を吸う
¶チッタシカー: Citta-sikhā =(adhicitta-sikkaā :増上心学:training in higher mentality) 高い心(Citta)を学習すること。例えば高い定(Samādhi)のような美徳を生じさせるために心を修習する実践項目。三学の(Sikkhaa 3:the tree fold learinng:The Threefold Trainng) 戒・定・慧の項目のうちの定の事 (P.A Payutto仏教辞典 124) & BUDDHADHAMMA P.A Payutto
¶ 要素の塊→四大、四界(Dhaatu 4:elements)自らの実相を有するもの。すなわち自性のまま、因縁のままにあり、創造者はなく、自我はなく、有情でもなく、生命もないもの。地界(Paṭhavi-dhātu)、水界(Āpo-dhātu)、火界(Tejo-dhātu)、風界(Vāyo-dhātu)、すなわち四大、または四界の事 (P.A Payutto仏教辞典 146)
¶ 受:Vedanā ヴェーダナー(feeling;sensation):所縁を感受すること。
1.楽受(Sukha-vedanā:pleasant feeling: pelasure):身を通じても心を通じても安 楽、快適さを感じる事。
2.苦受(Dukkha-vedanā:painful feeling: pain):身を通じても、心を通じても苦、不快を感じる事。
3.不苦不楽受(Adukkhamasukha-vedanā,Upekkhā-vedanā:neither-pleasant nor painful feeling :indifferent feeling) 楽でもない、苦でもない捨受(Upekkhā-vedanā)と呼ばれる平静な感覚。 (P.A Payutto仏教辞典 110)
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