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Saññā 知ろうと意図する心⑥ ルアンポー・プラモート師

 (つづき)世間の人々がはまり込んでいる間違いの一つは永遠があると思っている事です。それは輪廻の中の生死でも同じ心が続いていくということです。100回前の前世の心と今のわたしの心は同じであると感じているのです。またある人は別な風に考えます、どの生でも全く同じ心が続いてゆき、それが終わることなく続くというものです。これはヒンドゥー教の考え方です。輪廻のある生死である身体が死んでも心は次の新しい身体に心が乗り替わるというものです。これは仏教ではありませんよ、分けてください。私たち仏教は心が身体から抜けて別な身体に生まれ変わることは無いのです。そこにあるのは心は生じ、在して、そして滅する。そしてまた別の心が生じて在し滅するこのことが続いていくのです。あたかも鎖の輪が次々と繋がっていくようなものなのです。ですから、永遠に在り続けるようなものは無いのです。私たちがヴィパッサナー修習することは智慧でこのことを観る為なのです。そして私たちには生じるものは滅すると観え始めるのです。
 ミッチャー・ディッティ(邪見)の一つは今現在私はいる、過去に私はいない、今だけ私が生まれ、身体があり考えが生じ感覚があるというものです。そして身体が死んだならば心も消えて無になってしまうのです。これは邪見のもう一つなのです。
 邪見の一つは心は永遠不変にあるというもので死なない、ただ引っ越しをするようにこの身体から次の身体に移動するというものです。もう一つの邪見は今私はいる、しかし死んだならば私は無くなる、死んだならば全て終わるというものです。もし輪廻の生死が観えるのならば、あまり悪行為は出来ないものなのです、なぜならば次に悪い生まれになることを恐れるからです。しかし死んだら無になると考える人は、悪行為で満ち溢れることが出来るのです、人生は一回きりだ、死んだらもう何もなくなるのだからと考えるのです。
 このような邪見は真実が観えないことから生じているのです。私達の生は一瞬一瞬の消滅であり心は慣性の力で動いています。生はただただ生じていくものであると修習で鍛えることによって観えるようなるのです。一日中、昼も夜も一つの心が生じて滅し、また別の心が生じて滅してを繰り返しているのです。(つづく)


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