⑯自分自身の心を読む ルアンプー・プラモート師
(続き)私達の身体と心は
良いものでもなく、特別なものでも無いのです
ここまでわかると
集諦(サムダヤ)つまり渇愛(タンハー)が
自動的に洗い流されるのです
苦を明確に観ると
集諦(サムダヤ)が自動的に洗い流される
つまり
私達に無知が生じなくなるのです
私たちは幸せ・楽が欲しい
苦しみたくない
「身体は楽だけ生じてほしい」
これは無知です
なぜならば身体はどうやっても苦(ドゥッカ)だからです
「心は楽・幸せだけ生じてほしい」
これも無知です
私達に毎日ある心は
楽が生じる時もあれば
苦が生じる時もあり
これは最初に観えてくるものです
次第にもっと詳しく観えてくるのです
そして
「本当の楽は無い」のです
苦が大きいか
小さいか
だけなのです
もしもこの段階まで観えたならば
苦をはっきり観た
ということになるのです
苦か楽か
では無いのです
あるのは
苦が大きいか小さいかだけなのです
それは身体も心もそのようなものなのです
もしも心がこのようにいつでも観えるようになったのならば
「欲しい」ということが生じなくなるのです(続く)
21:04~