なぜ修習(バワナー)がなかなか成功しないのか ルアンプー・プラモート師
私達が修習(バワナー)する時
なぜなかなか成功しないのでしょうか
私達は死ぬほどに修習(バワナー)しているのに
ある人は一生懸命実践したにも関わらず結果が出ないのです
それはなぜならば
渇愛(タンハー)を伴って修習(バワナー)するから
なのです
「やりたい」という気持ちが生じて
「実践をしたい」
「解脱し涅槃に到達したい」
こういったことをシッダッタ王子は見抜いていたのです
その働きを追いかけて追いかけていくと
「渇愛があること」
それは
「執着」を引き起こします
「執着がある状態」は
「心を飾り立てる」のです
「心を飾り立てる状態」は
「『それ』をつかみ取る」働きをし
心が目・耳・鼻・舌・身体・心の「それ」を掴み取るのです
目・耳・鼻・舌・身体とは名(ルーパ)のグループですね
心とは色(ナーマ)の集まりです
私達が名色(ナーマ・ルーパ)に執着すると即座に苦(ドゥッカ)が生じるのです
なぜならば
仏陀はこう言いました
サンキッテーナ
パンチュッパターナ
トゥッカー
つまり
五蘊に執着することは苦(ドゥッカ)である
ということです
つまり名色に執着することが苦(ドゥッカ)である
という事なのです
もしも私たちが
「それ」を掴むのならば名色が表れてくるのです
目・耳・鼻・舌・身体・心をつかんだ時
すなわち名色(ルーパ・ナーマ)を掴むことは苦(ドゥッカ)を掴み取ることでもあるのです
私達は
まるで真っ赤に燃えた石炭を見ている無邪気な子供の様です
無明(アヴィッチャー)の為、真っ赤に燃えた石炭が危険なものか判別がつかないのです
綺麗だと思って掴み遊んでしまうのです
私達にはまだ無明(アヴィッチャー)があります
目・耳・鼻・舌・身体・心でつかみ取るもの
受(ヴェータナー)・相(サンニャー)・行(サンカーラ)・識(ヴィンニャー)
五蘊・六根から入るもの
それらをつかみ取る事は苦をつかみ取る事であると解っていないのです
シッダッタ王子はそれらが苦であると観えていたのです
仏暦2567年7月28日