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正しい布施のやり方 ルアンプー・プラモート師

もしも、布施を正しく出来ないのであれば

それは法の実践ではありません

煩悩を増幅させることになってしまいます

もしも布施の代わりに得られるものを期待するならば

布施を正しくできない ということです

布施をしたなら

あれを期待しこれを期待するのです

水牛や牛を逃がす布施*をすれば健康になる

しかし

これは良くありません

盲目的な信仰です

仏陀の時代にある小僧がいました

小僧はサーリプッタ尊者の弟子でした

サーリプッタ尊者はこの小僧がもうすぐ死んでしまうだろうと

感づいていました

ですから

尊者は小僧に向かって

「両親に会いに行ってきなさい」と言ったのです

そう長くない間に小僧は死ぬことになってしまうので

尊者は慈悲(メッター)の心でこのように言ったのでした

そうすれば両親も安心して喜ぶだろうと考えたのです

小僧は両親に会いに実家へと帰ることにしたのです

時期は乾季でした

道中

小僧は狭い場所に閉じ込められた魚を目にしたのです

それは乾季の為に沼地が干上がり水が減った為でした

魚は身をくねらせ今にも死んでしまいそうです

それを見た小僧の心に可哀そうという気持ちが湧いてきました

小僧は魚を広い水のある場所へ放ってあげたのです

そして

小僧は両親に会い再びサーリプッタ尊者のところに戻ってきたのですが

小僧は死ぬ事がありません

尊者は困惑しました

小僧は死ぬ事になっていたのに何故しななかったのか?と

そして尊者は小僧に聞くと

魚の命を助けたというではありませんか

小僧が魚を助けた時

小僧は自分の命が永らえることを望んでいたのでしょうか

小僧は死ぬことになるともわかっていませんでした

小僧はカルナー(抜苦)の純粋な心で

苦しんでいる動物を憐れんで

自分の出来ることを施してあげたのです

カルナー(悲:抜苦)の心でした

何匹も放流したのではありませんでした




数匹かでも1匹でも構わないのです

私たちは功徳として1,000kgも放流したりします

ブン(功徳)があるのでしょうか?

それは

その後ろにある心に何があるか次第なのです

先ほどの小僧の話では

小僧には憐み(抜苦:カルナー)の心がありました

小僧が行った行為は小さいものでした

しかし

その結果は大きなものだったのです

生き物を助けることで自分自身の功徳になります

そしてこの功徳は自分自身の命をまだ死なない様に養ってくれるのです

自分が長生きしたいので魚を放流(逃がしてあげる)のではありませんよ

これはローパ(貪欲)による行いなのです

憐み(カルナー)で行わなければ功徳(ブン)にはならないのです

それは身勝手な利己心なのです

布施をすれば自分が良くなる、と

ですから

布施をするだけでも正しく行うやり方を知る必要があるのです

*タイには魚や鳥を買いそれを放流する(生命を助ける)布施がある(参考)

仏歴2568年1月5日


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