ポケットにはあめ玉を
これは母に聞いた話であるが、私のおばあちゃんは、それはそれは変わり者だと近所でも評判だったらしい。
寅年生まれで男勝りに気が強く、頑固者。
おっとりマイペースでのんびり者のおじいちゃんとはまるで性格が正反対で、だからこそ気が合っていたんだろう。
母によると、親戚の子どもは皆が皆おじいちゃんっ子だった中、なぜか私だけがおばあちゃんっ子だったらしい。
「変わり者同士は仲が良かったい!」
と、今でも母がいろんなエピソードを笑って話してくれる。
もちろんおじいちゃんのことも大好きで、たくさんの思い出話だってこの胸にたくさん詰まっている。
けれど妹と弟が、今でも頑なに『おじいちゃんっ子派閥』に私を加えてくれないので、私は唯ひとり、『おばあちゃんっ子派閥』の牙城を孤軍奮闘しながら護っている。
私は京都生まれ、三歳の時、父の実家の熊本に帰って来た。
いろんな事情があったらしく、家族会議の結果、末っ子の父が戻る選択をしたんだと、いつだったか聞いた記憶がある。
もちろんその頃のことは覚えていないけれど、それからのおばあちゃんと過ごした生活や時間のいくつかを、断片的ではあるがなぜかはっきりと覚えているから不思議である。
遠く懐かしい想い出は、まるでコマ送りの映画のようで、私はふと、幼い頃のおばあちゃんと過ごした日々を振り返る瞬間がある。
雨の降る日、大きな傘をさし、長靴を履いておばあちゃんと手を繋いで散歩をしていた。
おもちゃの大きな船に紐を結んでもらい、水たまりの中に浮かべて私が引っ張って遊んでいる。
カエルの鳴き声を聞きながら、
「じゃぶじゃぶ!」
とはしゃぐ私を眺めながら、おばあちゃんは優しく笑っている。
水の中を歩くのが楽しくて、二人手を繋いで、歌を歌いながらお散歩をしていた覚えがある。
今では埋め立てられ、様々な施設が建てられたり整備が行われて大きな道路になってしまった場所も、昔は見渡す限りの海岸で、そこにもおばあちゃんとよく行っていた。
波がひいた後の穴場やくぼみには、ハゼや小イワシ、エビなんかがたくさん泳いでいて、夢中で捕まえては水を貯めたおもちゃの船に活かしていた。
イソギンチャクを棒でつついたり、ヤドカリを捕まえてみたり、砂を掘ってアサリ貝を探したり、そこは幼い私にとっては宝島であった。
靴はボロボロ、買ってもらったばかりの洋服は水浸しで帰宅するので、母はいつも怒っていたそうだ。
何度注意しても、おばあちゃんが私を連れ出して二人とも言う事をまるで聞かないか忘れてしまっているので、最後の方は母も諦めたらしい。
また、当時、母は私が虫歯にならないようにと、甘いお菓子をあまり食べさせないようにしていた。
それを知ったおばあちゃんは、
「こがん小さか子にそりゃ可哀想やろもん!」
と、母がいないところで私にこっそり甘いお菓子を渡していた。
その光景を偶然に目撃した母は、
「こりゃなんとかせなん!」
と、家中のあめに一味唐辛子をたっぷりまぶし、それを知らずに食べた私が泣き出してしまったそうだ。
しばらくはあめ玉を見るのもイヤだった時期があるんよ、まぁとんでもない教育方法もあるもんだねと、今では笑い話である。
表向きは一応母の勝利かのように思えたこの攻防ではあったが、そこは一日の長、おばあちゃんにはとっておきの秘策があった。
おばあちゃんは、自分のエプロンのポケットに新品のあめやチョコをたくさん隠して私の手を引いて海岸へ行くと、そのお菓子を取り出して私に食べさせてくれた。
そして残りのお菓子はおもちゃに船の中に隠すという、サスペンスドラマに出て来そうなトリックと知恵を与えてくれた。
口をもごもご動かし、甘い香りを漂わせる私とおばあちゃんを見た母の推理によってこの計画は破綻するかに見えたけれど、流石の母もこれには大笑いし、条件付きで甘いお菓子を食べるのを許可してくれたらしい。
だから結果的に、おばあちゃんは大勝利を収めたのだ。
おばあちゃんは本当に優しくて、私はおばあちゃんが大好きだった。
今だってそうだ。
幼い頃の経験や記憶は、大人になってより一層大きな意味を運び、さらに鮮やかな色彩となって人生に深く関わりを持ってくれる。
何か辛いことがあったり、なんとなく悲しく孤独を感じる時、私はいつも、おばあちゃんに手を引かれ、歌を口ずさみながら水だらけになって遊んだあの風景を思い出す。
いつも私をかばい、守り、頭を撫でてなぐさめてくれた温かく優しいおばあちゃんの手が、そっと背中を後押ししてくれているような、そんな気持ちにふとなる。
転んで、膝小僧を赤くして泣いている鼻垂れ坊主に、ポケットからたくさんのあめを出して食べさせてくれた、あの日のように。
懐かしい海岸に行くと、いつも海風が甘酸っぱいのは、おばあちゃんがこっそりくれた、あのあめ玉の香りのせいなのかも知れない。