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エメラルドの星

親戚に、かすみさんという人がいる。

年齢は私のちょうどひとまわり上、同じ五月生まれで双子座、血液型もこれまた同じO型で、そのせいなのかどうかは分からないけれど、私はかすみさんとはとても気が合う。

映画やアニメが大好きで、昭和世代には懐かしいものだけでなく、今の流行りの漫画に至るまで趣味が広いので、私だけではなく、私の子供たちとも仲良しである。

「れい君はたい、北斗の拳に出て来る南斗水鳥拳のレイでしょ?そんでしゅんちゃんは、聖闘士星矢のアンドロメダ瞬じゃん?よかねぇ。私もマミヤとかアイリとか、ラムとか蘭世とか、そんな名前がよかったなぁ」

なんともまぁマニアックな会話である。

私が保育園の頃、母に言わせるならもっともっと小さい鼻垂れ坊主の頃から、私はかすみさんのことを、「かすみねえちゃん」と呼び、いつも足元にくっついていて離れなかったそうだ。

かすみねえちゃんには妹が二人いて、そのおねえちゃんたちももちろん優しくてたくさん可愛がってくれたのだけれど、私はどう言う訳か、かすみねえちゃんに一番懐いており、みんながそれを不思議がっていた。

三姉妹の長女という理由からか、他の何か魅力を感じたのか、今となってはもう定かではないが、私は小さい時分も、大人になった今でも、「かすみねえちゃん」と呼び、かすみねえちゃんも昔と全く変わらない笑顔で私の名前を呼んでくれるので、とても心地が良いのである。

また、かすみねえちゃんは、私の母を「涼子ねえちゃん」と呼ぶからこれまた不思議である。

いつだったか、母がこんな話をしてくれたのを覚えている。

「かすみは親戚の中でも特にあんたを可愛がってるでしょ?不思議と思わんね?小さい頃ならともかく、あんたが高校に行っても大学生になっても大人になって結婚しても、私と会えば必ずさ、『れい君は元気?ねえちゃん。』
て、いつも聞くとよ。『元気も元気、連絡も取れんくらい遊びまわって、学生課から、このままでは留年ですって封書も来るくらいよ』て言うた時あって、相変わらずやねて、笑ってたわ。かすみはね、あんたがよちよち歩きの頃にかけてくれた言葉が忘れられんらしくてね、そればずっと覚えてて、あんたのことを恩返しみたいに可愛がってくれてるんよ。」

かすみねえちゃんにはひとつだけコンプレックスがあったそうだ。

それは「そばかす」らしく、小学校でもそのそばかすが原因で、男子にからかわれたりなんかして、泣きながら家に帰る日もあったらしい。

何も知らない幼い私は、そのそばかすを見て、

「あ、かすみねえちゃん可愛いなぁ。それしょばかしゅって言うんでしょ?お人形さんみたいできれいだなぁ。どうやってつけるの?おれも欲しいなぁ。一緒がいいなぁ。」

そう言っていつもかすみねえちゃんの頬を触っていたらしかった。

かすみねえちゃんはそれが嬉しくて可笑しくて、悩んでいる自分がなんだか馬鹿馬鹿しく思え、それ以来全く気にしなくなったそうだ。

「そばかすあったらなんか悪いとね?なんか迷惑かけたね?校長室行っては先生に話聞いてもらうけん、一緒に来んね?」

そう男子に言うと、もうそれからはいじめも無くなったらしい。

「だけんさ、かすみはね、今でもそれを覚えてるんよ」

と、母は言う。


そのかすみねえちゃんが、亡くなった。

つい先日、少しばかり寒い日であった。

死因は癌であった。

もう随分と前から治療を施していたらしかったが、ごくごく近い家族にしか、その事実を打ち明けていなかったそうだ。

最後に会ったのは、約一年半くらい前で、その時はまさかそんな恐ろしい敵と闘っているなんて、まるで思わせないくらいに、いつも通りとても元気で明るくて優しくて、私の娘と二人、お買い物にも出掛けていた。

だから、母から話を聞いた時、私は何かの冗談かと思った。

母が泣きながら話をしたので、それが真実だと悟るしかなかった。


お通夜の日、親戚や近所の方がたくさん集まり、久しぶりの挨拶を交わしながら、私はいろんな出来事をひとつひとつ、ゆっくりと、ゆっくりと思い出しながら座っていた。


小さい頃、お盆や大晦日にみんなで集まって子供たちで遊ぶ時、トランプやカルタ、すごろくなんかを持ち寄り、布団をくっつけてその上に座り、お菓子を食べながら一晩中はしゃいでいた。

一番小さい私を勝たせるために、かすみねえちゃんがいつもわざと負けたフリをしていた。

他のねえちゃんが、学校で聞いた怖い話をする時は、私が泣かないように、毎回膝の上に座らせくれた。

「それは、それは、お前だぁ!!」

怪談話のオチを知っているかすみねえちゃんは、目を開いて大声を出すねえちゃんから私を守り、

「こら!そんな大きな声出して!!」

と、妹を怒るような仕草を見せながら私の頭を撫でてくれた。

「こわくないけん!作り話やけんね!お化けなんて、ねえちゃんが懲らしめてやるけん、泣かんでいいけんね!」

そう言って夜中には禁止されていた、チョコレートをこっそり食べさせてくれた。

近所のグラウンドでかくれんぼをしたり、あやとりを教えてもらったり、宝物だと大切に集めていた美しいビー玉を分けてくれたり、花火を見に行き、たこ焼きやりんご飴を買ってもらったり、幼い頃のかすみねえちゃんとの思い出の全てが、私にとっては、懐かしい映画のようだ。

恥ずかしい話も、甘酸っぱい記憶も、決して色褪せることなく、モノクロの名作映画のような鮮烈さをもって、いつも胸を熱くしてくれる。

私は高校一年生の頃、寮生活を送っていた。

今の時代では考えられなほどに上下関係が厳しく、先輩の存在は絶対的であり、今にして思えばその経験もまた、自分を作る大切な時間であったと思っている。
しかし当時はやっぱり辛いこともあり、母には少しばかり弱音を吐いたりしていた。

寮生活が始まってしばらく経った頃、かすみねえちゃんが差し入れを持って会いに来てくれた。

「どうね?寮生活は?男子校やし、部活の名門やし、厳しいでしょ?いろいろと大丈夫ね?」

「うん、まぁまぁやね。こんなもんでしょ。寮なんて。」

と、私はなぜか強がりを言ってしまった。
ほんとは少しだけ甘えも言いたかったはずなのに、カッコ悪いところを見せたくないのか、精一杯の見栄を張ってで応じた。

「お!?さすがやん?安心したよ。」

とりとめのない会話を少しした後、かすみねえちゃんは帰って行った。

私は歯を食いしばって後ろ姿を眺めていると、ねえちゃんは振り向いて笑った。

「なんかあったら、ねえちゃんにすぐ言わなんよ飛んで来るけんね!」

そう言ってウインクをしてくれた。

私はその後ろ姿をずっと見ていた。


平成十五年の晩秋、私は妻を亡くした。

息子が間も無く二歳、年子の娘がもうすぐ一歳になるかという、少しばかり肌寒い、木の葉の舞う日であった。

当時は東京、妻の実家のある新潟で生活をしており、その心を焼き尽くすかのような大きな出来事をきっかけに、私は故郷である熊本に帰ることを決心した。

二人の子供を抱っこし、大きなリュックにミルクとオムツ、お菓子やおもちゃ、そして妻の遺骨を入れ、電車や飛行機、バスを乗り継ぎ両親の待つ実家を目指した。

道すがら、まだ何も分からない息子は、空港のロビーで、機関車トーマスのおもちゃを走らせ、ニコニコしながら遊んでいた。

泣き虫の娘は、私の背中で寝息を立ててすやすや眠り、時折いつもと違う風景を見渡しながら、何か話していた。

お葬式などひと通り終えたある夜、親戚が家に集まった。

励まし会を兼ねた、夕食であった。

その席に、かすみねえちゃん夫婦も休暇を取って来てくれていた。

「大変だったね。」

そう、心の中で何回も何回も言葉を選んでふりしぼるかのような、かすみねえちゃんらしい、優しく温かい口調でそう言ってくれた。

かすみねえちゃんは美容師で、ご主人のけんじさんは地元の大手自動車メーカーに勤めていて大の釣り好きである。

私の父も、釣りの腕前はもう趣味の域をゆうに越えており、大きな船を二艘も所有しているくらいである。

そういう縁もあってか、かすみねえちゃん夫婦も、けんじさんの連休の時などは市内を夜中に出発して私の実家まで来て、暗いうちからお弁当を持参し船で鯛釣りへと向かっていたのを、私は今でもよく覚えている。

そして真っ赤に日焼けして帰って来て、真鯛やチヌ、太刀魚なんかをクーラーボックスに入り切らないほど釣って来ては庭先で刺身にし、それをアテにビールを飲むのが何より幸せだと、けんじさんはいつも顔を天狗のように赤らめては満足そうに笑っていた。

かすみねえちゃん夫婦には子供がいない。

かすみねえちゃんには大きな持病があり、強い薬を毎日服用しており、妊娠が難しいらしく、そのこともちゃんと話し合った上で結婚したそうだ。

まだ一歳にならない私の娘は、とても人見知りが激しく、生まれて間も無く血液の病気で入院していたこともあり、亡くなったママ以外の誰にも懐こうとはせず、かろうじて私が抱っこしたりミルクをあげれるくらいであった。

親戚の人が名前を呼んで顔を近づける度に、蜂の巣を突いたように大声で泣き、誰が試みても笑顔を作ろうとはしなかった。

そして、最後にかすみねえちゃんが抱っこする番が回って来た。

おっかなびっくり、恐る恐るゆっくりかすみねえちゃんが娘を抱っこしてみると、どういう訳か、あれほど泣きじゃくっていた娘が大人しくなったので、みんなが不思議そうに、感激した表情で互いに顔を見渡した。

娘はキャッキャと笑いだし、何か喋ろうとしているようであった。

「これはどういうこと?」

そう言って私の母が抱っこをしようとするや否や、娘は顔を赤くしてまた泣き始める。

再びかすみねえちゃんが優しく受け取ると、娘は再び天使のように笑うのだった。

ほんと不思議やなぁと、私もかすみねえちゃんと娘を温かい気持ちでしばらく眺めていた。

娘はずっと笑っていて、いつの間にやら気持ち良さそうに、何か夢でも見ているのか、口をモゴモゴ動かし、時折小さな寝息を立てながらかすみねえちゃんの優しい腕に包まれ眠っている。

母が、真剣な口調で言った。

「なぁ、この子は、かすみの家で育ててもらった方が幸せなんやないかな?父親一人で二人の小さな子を育てていくのは大変やし、そりゃ、あんたは、頑張るって言うやろ。親やもんな。けど、この子のこれからとか幸せを第一に考える時、何が一番大切かを客観的に、自分本位にならんようにしっかり決めるのも大事じゃないかな?母親がいない女の子が、どれだけ後で悲しい思いをするか、それはこの子が大きくならんと分からん。かすみとけんじさんの性格はみんながよく知ってるやろ?子供が出来なかったのも、何かの縁かも知れんし、見てん?かすみにだけ気持ち良さそうに安心して抱っこされて。これは神様が巡り合わせてくれたんじゃないかな?養子縁組とか、その辺の難しい話はまた別として、かすみはどう思うとるんね?よく話し合って、もちろん答えはすぐには出せんと思うけど、今はみんなが幸せになるように行動しなさいって、神様がそう言うてる気がするよ。」

私は母の言葉を下を向いて黙って聞いていた。

かすみねえちゃんに目をやると、ねえちゃんは涙を流しながら娘を抱っこしていた。目が覚めた娘は小さな手を一生懸命に伸ばして、かすみねえちゃんの顔を触って何かを話しているようだった。

まるで、本当のママに語りかけるような仕草であった。果たしてこんな無垢な笑顔を、私はこれからひとりで作ってあげれるのだろうか?そう胸の奥底から声と疑問が聞こえて来るようだった。

それから何日かが過ぎたある日、庭の苺の苗が小さい、可愛い花を咲かせていた。
息子が生まれた年の夏、妻と息子を連れて初めて帰省した時、妻が母に、果物の中で苺が一番好きだと話していたのを母が覚えていて、今度また帰って来る時の為にとホームセンターで苗を買ってきて植えていたそうだ。

私はその花を見ながら、かすみねえちゃんに電話をした。

「わかなは、おれが責任を持って育てます。どうしたらいいか、何が正解かたくさん考えたけれど、おれには答えが解らなかった。だけん、自分で育てるのが一番答えに近いって思った。」

と伝えた。

かすみねえちゃんは、安心した様子で、いつもと同じように笑い、

「さすがやね!いやぁ、ほんとさすがっていうか、やっぱパパやね!あたしね、そう言うだろうなぁって、実は思ってたんよ。小さい頃からの付き合いだしね。あたし達夫婦もさ、もちろん子供が欲しいっていう気持ちには誓って変わりはないけど、あなた達をずっと見守って応援しようって思ってるけん!今度、ちびちゃん達に子供服いっぱい買って行くけん!」

私はホッとして、コーヒーを口にした。

そんな、もう二十年前の遠い出来事を、思い出していた。

お通夜の夜、

「ちょっといいね?」

と、けんじさんが肩を叩いてくれた。

二人で外へ出た時、空を見上げると星がキラキラと輝いていた。

「いろいろ、ありがとね。仕事も休ませちゃってさ。すまんね」

「俺さ、れい君にいくつか謝りたいって思って。れい君が今から二十年前に奥さん亡くして帰って来た時に、俺、なんて声かけていいか分からずに、大変やけど、頑張って欲しい!まだ若いんやから、これからなんとでも人生は作って行けるから、上を向いて頑張って欲しい!って、言ったと思う。けどこうやって実際自分の妻を亡くして、俺、初めてそれがどんなにきつくて絶望的で、目の前が真っ暗で、苦しいか、分かった。上を向けとか、頑張れとかまだ若いからとか、俺はなんて他人事でちっぽけな言葉しかかけてあげれんかったんやろうかって、自分が恥ずかしくて、キミに申し訳なくて、それをまず許して欲しい。そしていつだったか、わかちゃんを、俺たち夫婦で育てた方がいいんじゃないかって話になったよね。あの時もし、わかちゃんをかすみと二人で育ててたら、わかちゃんは二人のママを亡くす事になってたよ。そんな悲しい思いをさせるなんて考えずに、軽はずみにかすみといろいろ生意気な話をしていい気になって、本当にすまんかった。奥さん亡くして帰って来たれい君から、大切な娘まで奪ってしまうところやった。軽はずみで自分達の幸せしか考えてなかった。本当になんて言って謝ればいいのか、俺には言葉も見つけきれない」

けんじさんは、目を真っ赤にして泣いていた。

上を向いても溢れた涙が止まらず、下を向いて泣いていた。

たくさんの涙が出る時、人は無意識に下を向くんだと、その時思った。

自分もきっとそうだったに違いないと考えながら、私はけんじさんの大きな筋肉質の肩を叩いた。

「謝らないでください。かすみねえちゃんとけんじさんにはたくさん励ましてもらって、おれも立ち直れたですよ。誰だって、経験せんと分からないし、誰か大切な人を亡くした人にかけてあげる言葉なんて、誰も分からないですもん。頑張れ!負けるなよ!そうやって背中を押すくらいしか、思いつかないです。今のおれもそうです。そして、あの時、もしわかなをかすみねえちゃんに預けて育ててもらっていたとして、こうやってねえちゃんが亡くなっていたとしても、わかなはきっと幸せだったと思います。だって自分の人生の中で、優しくて温かい、二人のママに愛情を注いでもらえたんですから。二人の大切な母親に、人の二倍愛情をもらえたんだから。」

けんじさんは、ありがとう、と、何度も言いながら、涙を拭い、今度は少しばかり笑顔を作って、私と夜空を見た。

その晩は双子座流星群が見える夜であった。

私もかすみねえちゃんも、同じ双子座だ。

夜空を見ながら、かすみねえちゃんが、もう随分と大昔、私がまだ小学生の頃に聞かせてくれた話をふと思い出した。

かすみねえちゃんがまだ小さくて、私が生まれてもいない頃、可愛い子犬を飼っていたそうだ。
その子犬は親戚から譲ってもらったらしく、生まれつき右の前脚が不自由で、棒のように固まり一切動かなかったらしい。
そして不思議なことに左の目が緑色をしていて、ビー玉のようにキレイだったそうだ。
一匹だけ貰い手がなく、親戚のおじさんも困っていた中、かすみねえちゃんがそのワンちゃんに一目惚れし、お父さんを説得して飼うのを許してもらったそうだ。

かすみねえちゃんはその子犬に、双子座の「ポルックス」から取り、
『ポルク』
と名付けた。

「ポルクは病気で天国に行ったんだけど、キラキラしている星になったんだよ、ほら、星ってたくさんあるでしょ!?人も動物も、命がなくなったらみんな星になって、大切な家族とか友達に見てもらえるように、ピカピカと輝くんだって!全部の星に、必ず名前があるんよ。すごいでしょ!」

幼い私は、嬉しそうに話すかすみねえちゃんの顔と、星のようにキレイなそばかすをチラッと見ながら、一緒に、少し首が痛くなるくらいずっと、冬の夜空眺めていたのを覚えている。

だから、かすみねえちゃんは、きっと星になったんだろう。

大切な人が泣かないように。

そして道に迷わないように。

ありがとう。

いつも守ってくれて。

ビー玉とか、子供服とか。

紅茶とかお菓子とか、

お酒なんかや漫画。

数えきれない星のように、

いっぱい。

たくさん。

北東の空の、
あのエメラルドに輝き、
ひときわ美しい星が多分かすみねえちゃんなんだろう。

そのすぐそばで、
キラキラ光っている小さなエメラルドの星が、
きっとポルクに違いない。

かすみねえちゃんの隣で、
寄り添うように、
くっつくように、
支え合うかのように。
































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