政治的目覚めの先へ
「ヨーロッパや中国では、権力者はこの部族のオーラルの伝承から文字による国家神学へと言う変遷を意図的、計画的に推進しました。それは民衆が馴染んできた伝承や習俗をキリスト教や儒教による強化で絶滅させ、制度宗教で民衆を思想的に統制すると言う形をとりました」「
中国でもヨーロッパでも他の文明では、権力の課題は体系的国家神学による民衆の教化、思想統制です。思想の統一が国家の統一に不可欠な条件になります。ヨーロッパではこの文明の在り方はロゴスとして定式化され、中世では神学、近代では存在論のかたちをとってきました。ヨーロッパの存在論は究極的には神の存在神学だったからです」
「ところが日本には、存在が完全、生成は不完全などと言う思想は全くありません。古事記を見ても、神を完全な存在にして体系的国家神学を構築する気がない。これが日本の体質というか、伝統なのではないか。生成は生成のままでいい、死と再生がいつまでも繰り返されていく、それでよしとする。だから現実はあくまでも不定形、未完成、未完結な生成であるとするのが日本人の感性なのではあるまいか」
「多くの文明は模範となる完成された人間類型を設定して、それに人間をはめ込もうとします。中国なら君主とかヨーロッパなら完徳の聖人とか近代英国ならジェントルマンとか。だが思想統制がなかったこの国では、人間を一定の形にはめようとすることのなかった。完全を理想としない社会では、模範的な人間像など生まれようがありません。日本では文明が定めた基準に合っているかどうかではなく、個々人の修養の成果が評価されます。だから剣豪や俳聖はいます。このように、存在とは生成の過程であり、未完成、未完結、不定形な現実をよしとする、それが日本人の感性なのではないか。それがもののあわれといった言葉によって表現されているのではないか。ここに日本の個性、独自性があるように思います」
「この個性は、野生と洗練された様式が渾然一体となった日本の美学にも反映せれています。日本では文字文化、書かれた言葉を前提にした国家神学はついに成立しなかった。記紀は聖書や論語のようなものにはなりませんでした。だから戦前の皇国史観など不細工な代物なわけです。日本では昭和初期の軍部だけが総力戦遂行のために思想統制を試みましたが、これはまったくの付け焼き刃に終りました」
グローバリズムが進行する21世紀の中で、一神教的世界、つまり統治するものと統治されるものという2元性を前提とする政(まつりごと)である統治し、管理し、支配する政治にあらゆるものが覆われる世界になっていることに気づく。それを政治への目覚めと呼んだ。
と同時に、ぼくたち日本人が、そのような2元的な政治社会ではない別の社会のあり方を文化的DNAとして持っていることを、関さんはここで語り出している。
その日本的な社会とは、己の完成を目指して各自が己の人生の道を歩む剣豪や俳聖が続々と生まれ出てくる社会である。
面白すぎると思うのは、ぼくだけではないだろう。