「暇」の意義
わたしは暇になってしまった。
コロナ禍に突入してからずっと、ずーっと、わたしの余白はYouTubeで満たされていた。
でも、いよいよ見る(見たいと思う)コンテンツが尽きてきているのを感じる。
暇があればYouTube。
そんな生活が当たり前になってもう3年以上が経つ。
暇なとき、わたしはついあれこれと考えてしまう。
考えるというレベルに到達していない煩悩や雑念が生まれては消え、また生まれ、気づけばそんなものであっという間に頭の中はいっぱいになる。
そして大抵の場合はネガティブな感情につながる。
だから、煩悩や雑念が生まれ始めたら、勝手に駆け巡る思考を一刻も早く止めたくて、逃げるようにYouTubeに縋った。
いつしかそれが当たり前になり、癖になった。
思考を止めるためにYouTubeを開くのではなくて、耳か目のどちらかでも暇してたら問答無用でYouTube。
煩悩、雑念、思考をなるべく生み出さない生活。
なんで、YouTubeで時間を溶かしているんだろう。
なんで、眼精疲労になるまで見てるんだろう。
なんで、見すぎて自律神経乱れてフラフラしてるんだろう。
……と、自分に疑念を抱いては離れようとして、幾度となく失敗する。
YouTubeから離れられても、アマプラやABEMAで気になるコンテンツに出会い、そのシリーズを一気見。
好きなものは繰り返し見ている。
いろんなYouTuberの過去動画も、配信番組の過去シリーズも、気になるものは全部見尽くしてしまったのだと思う。
いよいよわたしは暇になってしまったのだ。
最近、YouTubeのアプリを開いて見たい動画を探しても、見たいものは見つからない。
妥協して、展開を知っていても何度見ても面白い動画に辿り着き、再生する。
どうせなら、名作といわれる映画でも見たいものだ。
YouTubeなら何時間でも見れるくせに、映画見ようと思うと(2時間もあるのか……)と辟易してしまう。
どうせなら、オフラインを楽しみたいものだ。
旅行、リラクゼーション、○○体験……。お金がかかってしかたない。
仕事もしているし、暇じゃないと思っていたけれど、こんなことをウンウン考えるくらいには暇してるんだなと少々自分に呆れてしまう。
いざ何か新しいことを楽しもうと思うと、面倒臭さが勝って先述のように言い訳しながらここ数年は過ごしてきてしまったなと、ちょっともったいない気持ちにもなってくる。
・・・
今日、お世話になった人(前職時代のだいすきな上司)とランチにいった。
柔らかくてジューシーなのにスッキリしたヒレカツ。
食後はおしゃべりしながら広い公園をぐるっと散歩して、梅の花の匂いをスーハーして癒されて、マルシェで真っ赤な苺とミニトマトを買った。
解散して、一人で落ち着けるカフェでコーヒーを飲みながらこのnoteを書いている。
なんて気持ちのいい休日なんだ!
と、思わず感動してしまったのだ。
スマホを握らずに五感を満たす1日、最高……。
暇って悪くないし、特別なことをしなくてもこうやって過ごしたら楽しめるんだなって、なにかを思い出したような気持ちで心が晴れやかである。
そして、今はスマホを握ってポチポチと文章を書いているけれど、アウトプットなら心地よいことにも気がついた。
YouTubeをはじめとする動画配信や、各種SNSは、ひたすらにインプットだから苦しくなるんだなと。
趣味や娯楽として楽しめる範囲ならいいけれど、疲れちゃうのは違うもんね。
だいすきな人に会う、美味しいものを食べる、自然に触れる、想いを綴る。それだけで心は満たされる。少なくともわたしは。
暇はきっと、身近な幸せに気づくための時間なんだ。