三種の神器
新天皇の即位の際には皇位継承のしるしとして三種の神器が受け継がれてきた。
その鏡と勾玉と剣は、日本の神話と関連付けられ様々な意味が込められている。
日本の三種の神器の物語がどのように誕生したのかは定かではないが、聖書に出てくる契約の箱と関連があるのだろうか。そこにもやはり3つのものが納められていた。
神からイスラエルという名前を与えられたヤコブは西暦前1728年にエジプトで暮らすようになり、そのひとつの家族から非常に大勢の子孫が生まれた。やがてエジプト人たちは、驚異的な勢いで増えてゆくイスラエル人たちに恐れを抱き、重い奴隷労働を課した。彼らはファラオのために、貯蔵所となる都市、すなわちピトムとラアムセスを建てていった。しかし圧迫すればするほど彼らは殖え、それだけよけいに増え広がっていった。
西暦前1513年、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエル人たちは3ヶ月後にシナイ山にたどり着き、神と契約を結び、神を王とするひとつの国家となった。その時に与えられた法律の主なものが十戒と呼ばれている。それは、石板に書き込まれて、契約の箱の中に保管された。
この神から与えられた律法は、どんな役目を果たしたのか。
「律法がなかったなら、わたしは罪を知ることはなかったでしょう。」
「み言葉を聞いても行なわない人がいるなら、その人は、鏡で自分の生まれつきの顔を見る人のようなものだからです。」
人は自分なりの善悪の基準を持っているがそれが本当に正しいかはだれが認めるのか。喧嘩でも戦争でも、各々が自分達の正義を主張し合って争いあう。世界は統一された義の基準を必要としている。善悪を決定する最高権威である神の規準という鏡を見て、神の義を認めることをこの石板は象徴していた。
「わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。ですから、もはや互いに裁くことがないようにしましょう。それよりも、兄弟の前につまずきとなるものや転ぶもとになるものを置かないこと、これをあなた方の決意としなさい。」
神が善悪の決定主であり裁き主であることを認めるなら、自分が裁き主のようになって自分の義の基準を人に押し付けたり他人にイライラさせられることを緩和できるかもしれない。
契約の箱に入れられたものはあと二つある。
シナイ山にたどり着く前に人々が通った道は荒野であった。人々は食糧の心配をするようになった。エジプトを出て2ヶ月半が経過した頃、イスラエル人はその荒野でモーセとアロンに対してつぶやくようになった。 彼らに向かってしきりにこう言った。
「エジプトの地で肉のなべのそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたころにエホバの手にかかって死んでいたほうがましであった。あなた方はわたしたちをこんな荒野に連れ出して、この全会衆を飢え死にさせようというのだ。」
その時エホバはモーセにこう言われた。「いまわたしはあなた方のために天からパンを降らせる。民は必ず出て行って、各自自分の量を一日分ずつ拾うように。」
朝になると地面には薄片上の細かいもの、白い霜のようなものができていた。人々は散らばってそれを拾い、手臼でひくかつき臼でつき、それを料理なべで煮たり丸い菓子にしたりしたが、その味は油を入れた甘い菓子の味のようであった。今で言うドーナッツのような味だったのだろうか。人々はこれをマナと呼ぶようになった。
その後モーセは言った、「エホバが命じて言われた言葉はこうです。『それをオメル升に一杯取り、あなた方が代々守り置くものとしなさい。エジプトの地からあなた方を携え出した際にわたしが荒野であなた方に食べさせたパンを彼らが見るためである。』」
このマナの目的に関してはこうある。
「それで神はあなたを謙遜にならせ、空腹にならせてマナを食べさせた。それはあなたがそれまで知らず、あなたの父たちも知らないものであった。こうして、人がパンだけによって生きるのではなく、エホバの口から出るすべての言葉によって人は生きるのであるということを、あなたに知らせたのである。」
何のために法は存在し、与えられるのか。それは一見すると自由を奪うもののように思える。しかし、それは人々の福祉のために与えられている。愛に根ざした神の立法権の象徴としてマナは契約の箱に納められた。
「父親は自分に良いと思えるところにしたがって数日の間わたしたちを懲らしめるのが常でしたが、この方は、ご自分の神聖さにわたしたちがあずかれるようにと、わたしたちの益のためにそうしてくださるのです。確かに、どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず、かえってつらいことに思えます。しかし後には、それによって訓練された人に、平和な実、すなわち義を生み出すのです。」
最後のひとつはアロンの杖であった。
神がイスラエルの指導者として任命したのはモーセであり、兄であるアロンがそれを支えるよう神から取り決められていた。そのことを快く思わない勢力があり、彼らはモーセとアロンの指導者としての権威に挑戦するという事件が生じた。
モーセはとても温厚で謙遜な人物であり、人々に対して威張り散らしたり、搾取するようなことは全くなかった。
神はだれが自分の選んだ指導者かを明らかにするためにしるしを与えることにした。イスラエルの12部族の長たちに自分の名前を記した杖を用意させ、自分の選んだ者の杖は芽吹くことになると語られた。翌日になるとアロンの杖は芽吹き、花を咲かせ、熟したアーモンドの実をならせていた。
「アロンの杖を証の前に戻し、反逆の子らに対するしるしのために保存すべきものとせよ。わたしに対する彼らのつぶやきがやみ、彼らが死なずにすむためである」
行政権の長である王として神を認めることが、このアロンの杖に込められた意味であった。
会社では人事に関して多くの不平不満が起こり、多くの国ではクーデターが起こってきた。
「すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。したがって、権威に敵対する者は、神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは、身に裁きを受けます。」
聖書で言うところの“三種の神器”
それはまさに神を認めて生きることを思い起こさせるものであった。
「エホバはわたしたちの裁き主、エホバはわたしたちの法令授与者、エホバはわたしたちの王だからである。神ご自身がわたしたちを救ってくださる。」イザヤ33:22
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