習慣化の途中で手放してしまったこと
今年に入って、心と体によいことを身につけようと取り組んできた。
散歩は1月末からずーっと続いているし、
ジムも4月あたりからすこしずつ再開した。
noteも休み休みほぼ毎日書いている。
あとはニュース記事を読むとか、掃除とか。
習慣化には90日かかるといわれている。
このなかでちょうど90日程度の取り組みは散歩だ。
では習慣化できたか?と問われたら「起きて散歩しないと落ち着かない」レベルには浸透しているが、習慣化とはまだいえない。
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習慣は「やらないと気持ちが悪いこと」とよく言い換えられる。
このたとえではあと一歩だと申し上げたい。
やらないと気持ちが悪いこととして、1日の汚れを落とす入浴や、寝る前の歯磨きなどがあげられる。
たしかに、やらないと気持ちが悪い。
でもどうだ。
何千日と続けていても面倒くさいことに代わりはないし、酔って帰ってきたらサボるよね、ふつうに。
気持ち悪さとせめぎ合ったうえで「でももう限界だ寝よう」がしばしば勝利する。
お風呂や歯磨きでさえ面倒なのだから、散歩が面倒じゃないわけないだろう。
悠長に歩く時間があるなら1文字でも書き進めたいと、3日に2日は思うよ。
でもわたしは散歩に行く。
行かないと気持ち悪いから、ではない。
行かないと夜眠れないかもしれないという不安。
「行かない=サボり」による自己否定や罪悪感を見据えたうえでの「行かなければ」という義務感。
散歩はたしかに体にとってはよいおこないだけれども、習慣化の道のりが、心にとっては必ずしもよいといえないものになっていた。
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「やったほうがいいよね」ということがらは星の数ほどある。
文字どおり、やったほうが「よい」だけだ。
やらなくても、どうということはない。
しかしながら、どうにもわたしは一度始めてしまったことをやめることが昔から苦手であり、「やったほうがいいよね」が知らず知らず「やらないとDEATH」にすり替わりがちである。
「継続」といえるに至るまでに挫折してやめることは多くあっても、一度続きはじめてしまうと今度はやめられなくなってしまう、という面倒な性格をしている。
…うーん。
今でもなのだけれど、学校の先生や友だちや同僚から「がんばり屋」との評価をもらうことが多かったからか、がんばることが自分のアイデンティティに占める割合が大きいのかもしれない。
つまり、がんばらない、がんばれない、がんばっていない自分は自分じゃないし、誰でもないし、「じゃあ誰なの?わたし」みたいな、アイデンティティの喪失感をとても恐れているのかもしれない。
がんばらなくても、わたしはわたしなんだけどね。
別にがんばるだけが、わたしの個性ではないわけだし。
頭ではわかっていても、やっぱり脊髄反射なみの抵抗があるのだと思う。
無意識だから、わからない。
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散歩・ジム・note・ニュースのチェック・掃除
「やったほうがよくて、続けていること」の例として冒頭で5つあげた。
帰省してから10日ほど、note以外の4つを休んでいる。
ニュースはスマホでチェックできるのに関わらず休んでいる。
散歩もジムも行こうと思えば行けるのに行っていない。
母の手伝いはできる範囲で。
コミュニティの勉強会なんかも、ぜんぶ休んでいる。
noteはnoteで「続けよう、続けなきゃ」という感覚で書いていない。
帰省とか、今までしてこなかった休養とか、非日常的な日常生活を今送っているから、頭のなかも新しいシナプスが開通している感覚がある。
その思考を書き留めておきたいだけだ。
書いたほうがよいからではなく、純粋に書きたいから書いている。
いろいろなことを中断してみて思う。
「やらなければDEATH」ではなく「休んだほうがALIVE」である。
再開はいつだってよいのだから、別にやらなくてよいことは引き続き思う存分休みます。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたが「休んでみていること」はなんですか?