自分がないことに気づかされた本
自分とわりとよく向き合っているほうだと思っていた。
自分のことをわりとわかっているほうだと思っていた。
でも、実は自分をみたいようにしかみておらず、そのせいで本当の自分をぜんぜん知らなかったかもしれない。
…リトルアリョーヒンはわずか齢10歳そこそこにして、悟る。
「大きくなること、それは悲劇である」と。
わたしにとっての悲劇はなんだ。
わたしはなにを大切にしていて、どう生きたくて、なにがしたいのか。
読めば読むほどわからなくなった。
リトルアリョーヒンの世界に没入する一方で、こっち側の冷静なわたしはリトルアリョーヒンを前に膝から崩れ落ちそうになる。
本の世界とこっち側を忙しく行ったり来たりした。
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リトルアリョーヒンとは、小川洋子氏の『猫を抱いて象と泳ぐ』の主人公だ。
体がまるで小学生のように小さなチェス棋士である。
彼が一般的なチェス棋士と一線を画している点は、決して対局相手の前に姿を現すことなくチェスを指すところ。
彼と同名のチェス指し人形「リトルアリョーヒン」の、いわゆる「中の人」を担っている。
つまり人間のリトルアリョーヒンが、同名のからくり人形「リトルアリョーヒン」のなかに入り込み、人形としてチェスを指す。
人間リトルアリョーヒンは「中の人」という独特のチェススタイルから、公式戦での記録を持たない。
存在感の消えた存在として、文字通り陰ながらチェスを打つ道へ、まるでそれ以外の道などないかのようにごく自然と進み、生涯にわたりその道を歩みつづけたためだ。
彼は8×8のチェス盤に、無限の海をみている。
「盤上の詩人」とも呼ばれて、単なる勝ちではなく、棋譜の美しさにこだわった。
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わたしも今までやりたいようにやってきたつもりであったけれど、リトルアリョーヒンとの違いは、やりたいことのために、やりたいことができる「環境」をも自分で探すほどの熱量と行動がなかった点だ。
チェスを指したいから、指せる環境を探し求めたアリョーヒン。
一方でわたしはその(制限された)環境で、なにが「よいか」を選択してきたにすぎない気がする。
だから都合の悪いことを、都合よく環境のせいにもできた。
「あの人が言ったから」などと、人のせいにもできた。
ほかにも、いろんな「よさ」を無意識のうちに計算してしまっていた。
世間的な見栄え、周囲からの期待や目線、嫌われたくない気持ち、失敗したくない気持ち、くそみたいなプライドなどなど。
リトルアリョーヒンの純粋さを前に、わたしは実にむなしく、かなしく、情けない気持ちになった。
と同時に、今ある自分はもしかしたら「誰かが決めたよさ」を選択してきた結果であって、自分のことをなにも自分で決めていないような感覚におそわれた。そして「わたし」という存在を見失った気がした。「よさ」を判断基準にしてきたわたしに、わたしという存在などもともとなかったのかもしれないが。
わたしもこれからは少し、リトルアリョーヒンを見習いたい。
誰かが、世間が、環境が…といっても、最終的にどうするのか決めているのは自分なわけだが、自分の人生をもっと自分ごととして考えたい。
実に今この瞬間だって、選択と判断の連続なのだ。
PCの前を離れて家族と過ごすこともできるし、
すこしひとりの時間をもらうこともできる。
「こうしてほしそうだから」
「たぶん、こうしたほうがよいだろうから」
「こうしないと、小言をいわれそうだから」
先読みも大切だけれども、なんでもYESと答えてしまったからわたしはキャパオーバーで燃え尽きてしまったのである。
小さなことから、リトルアリョーヒン化したい。
自分で選ぶ勇気を。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたが最近した決断は、なんですか?