気を遣うのも遣われるのもへたくそなわたしの気疲れ
お気遣い、ありがとうございます。
ちょっとしたひと言でも気を遣ってもらったら嬉しいし、ときには救われるような気持ちになるし、本来気遣いは「ありがとう」と受け取るものなのだと思う。
でも、気遣いの受け取り方って難しいのよな。
「わたしはこれだけしてあげているのに」と、なんとなく見返りを求められる気遣いは苦手である。
なぜならわたしは気が遣えないから。
遠方の誰かに会うとき、いつも手土産を買うのを忘れる。
わたしではなく、その場にいない別の人に対して「ふつうお土産のひとつぐらい持ってくるよね」と言っている現場に居合わせたときにはめちゃくちゃ気まずかった。…それ、わたしじゃん。
「時間、大丈夫ですか?」と訊かれたときも、額面どおり受け取って「あ、大丈夫ですよ」と答えてしまう。
相手が時間を訊いてくるときは、「もう、ぼちぼち…」という意味なのだと、毎度あとから気づく。
「そろそろおいとましますね」と、とっさに出てこない。
あるいは「もしよかったら、○○してくれたら嬉しいです」などという、自分を控える気遣いも苦手である。
裏返せば「よくなかったら、○○しなくてもOK」となる。
じゃあわたしが、余裕がないなどの理由で○○しなかったら、それはそれであなたはとくに引っかかることもなくスルーしてくれるんですね?
いや「もしよかったら」はわたしも使うけど、わりと「ダメ元」感強めで言うかな。
でも、みんながダメ元で「もしよかったら」を使っているとは限らない。
とくに仲間内とか友だちに対して「もしよかったら」を使うときって、ある程度期待しちゃってない?
その期待感がしんどいと感じてしまうのよね。
1回は「ごめん、今余裕なくて」を使えたとしても、2回、3回はちょっと気まずいじゃん。
でもそういう人って2回、3回があるのよ。
気遣いしている風なんだけど、受け取るわたしとしては逆に気遣いを強いられているような気持ちになってしまう。
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いわゆる基礎基本の気遣いができない自分がいうのもなんだけれど、「プラスオンの気遣い」よりも「ステルス気遣い」ができる人に憧れる。
手土産を持ってくるとか、食事のときにお金を多く払うとか、「プラスオン」の気遣いはたしかに嬉しい。
でも、してもらったら返さないといけない義務感が生まれる。
気遣いに対して気疲れしてしまうのだ。
そうじゃなくて。
酔って身振り手振りが大きくなってきた人がグラスを落とさないように、その人のグラスをさっと奥にずらすとか。
その場の誰かがついていけない話題で盛り上がっているときに、さりげなく話題を変えるとか。
地味で誰も気づかないかもしれないステルス気遣いこそ、ありがたいと思う。
その気遣いのおかげでその場の、自分の、みんなの気持ちよさが保たれているのだから。
嬉しいことをしてもらうよりも
嫌なことが起きないほうが、わたしは嬉しい。
気づきにくいのが難点だけど、ステルス気遣いができる人はとても魅力的である。
気づいたときには本当に男女問わず惚れそうになるし、主張しないからこそ「いつもありがとう」と労いたい。
ちゃんと見ている人はいるよ、というが、わたしがその「ちゃんと見える人」になりたいと思う。
今日も読んでくれてありがとうございます。
最近あなたがしてもらった気遣いはなんですか?
あ、もしよかったらほかの記事も読んでもらえると嬉しいです。