最後まで粘り強い子?違うね。
小学校の通信簿には、教科ごとの評価とは別に素行の評価があった。
今もあるのかな。
残念ながら何年生になってもほとんど○がついた覚えがないのだけれども、それでも、高確率で○がついていた項目がひとつある。
「最後まで粘り強くがんばる」
母親からも「あんたは本当に気が長いね」と、わりと言われて育った気がする。
しかし今となっては気が長いどころか夫いわく「瞬間湯わかし器」だし、そのたとえは適切であると自認している。
そう、わたしは短気だ。
さらには飽き性だ。
担任の先生と母親の目に粘り強い子、気が長い子と映っていたのが今となっては本当に謎である。
そういう、親や先生に言われた自分のアイデンティティに関する言葉って意外と覚えているもんだけど、振り返るとだいぶ適当だよね。親も先生も。
しかもそれを真に受けて大人になっちゃったもんだから、いったんはダウト状態になっちゃうよね。
「自分は粘り強いらしいのだが、どうもそうじゃない気がしてならない。ダウト」みたいな。
たぶんわたしは「最後まで粘り強くがんばっている」のではなくて、単に「やめ時の判断が下手」なだけ。昔から。
今の仕事はもうすぐ、これまでの人生においてもっとも長く続いた仕事となる予定なのだが、がんばって粘り強く続けているというよりは「辞する理由がないために、辞めていないだけ」と表現するほうがしっくりくる。
よほどの苦痛、あるいはよほど魅力的なほかの仕事が見つかったら、たぶん辞める。
でも今はどちらもまだない。
それだけ。
そりゃあ、週休0日が続けば心も腐りそうになるしさ、思うように年収も上がらないしさ、来月の仕事も不安だし、いい仕事ができないときもあるし、なんだかなあと思うことなんて日常茶飯事よ。
でも、まだどれもやめるに足る理由にはならない。
ほかに魅力的ななにかもまだ現れていない。
年末年始の節目に「10年後、5年後の未来を描きましょう」とアドバイスしてもらって考えてみたけれど、たった2ヵ月前に思い描いたことを今もう一度空で言ってみろといわれたら、思い出せない。
…ぜんぜんコミットできていない。
そういえば、このあいだYouTubeでGACKTさんがバラエティ番組かなにかにゲスト出演している動画がおすすめにあがってきた。
MCから「10年後はどうなっていると思いますか?」と訊かれてこう答えていた。
まぶしすぎて、見えない。
…それよ。
わたしの未来もまぶしすぎて見えないことにしている。
あれだけ脳みそに汗をかいて描いた未来はなんだったのだ。
夢や目標は明確であればあるほど実現できる可能性が高まるというが、明確に描ける夢や目標はきっと、近いうち達成できる。
もはや今の自分には想像さえできない未来を味わいたいじゃないの。
と、思うようにしている。
で、今は「やめていないだけ」なわけだけど、もしかしたら10年後「やめるとか考えられない!楽しい!死ぬまで続けるわ!ビバ我が人生」とか言っているかもしれないし。
はたまた今の仕事はもう過去形になっているかもしれないし。
なんならもう、働いてさえいないかもしれないし。
この移り変わりの早い世の中で、明確に10年後を描ける人はよほどの予言者か、強烈なホメオスタシスの持ち主か、どちらかじゃなかろうか。
1年後~3年後ぐらいに目指したい姿は鉛筆でざっと描いておいて、1年~3年かけて色を塗っていく。
仕事も芸術作品も完成はない。
だから「これでいいかな」とやめ時を迎えるまでは、その絵に向き合う。
だってわたし、相当飽き性だもの。
粘り強いわけじゃない。
たまたま、辞めていないだけ。
今日はまだ、色塗りをやめなかった。
ただそれだけなんだ。
明日もきっと、色塗りは続くよ。きっとね。
今日も読んでくれてありがとうございます。
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