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抱えたものを抱えたままで『わたしの美しい庭/凪良ゆう』

今日もまた凪良ゆうさんの作品になぐさめてもらった。
今回読んだのはポプラ社より出版されている『わたしの美しい庭』

小学生の百音と統理はふたり暮らし。朝になると同じマンションに住む路有が遊びにきて、三人でご飯を食べる。
百音と統理は血がつながっていない。その生活を“変わっている”という人もいるけれど、日々楽しく過ごしている。
三人が住むマンションの屋上。そこには小さな神社があり、統理が管理をしている。
地元の人からは『屋上神社』とか『縁切りさん』と気安く呼ばれていて、断ち物の神さまが祀られている。
悪癖、気鬱となる悪いご縁、すべてを断ち切ってくれるといい、“いろんなもの”が心に絡んでしまった人がやってくるが――

ポプラ社HP

凪良先生の本はいつも装丁が世界観をよく表していて、先生の綺麗でやわらかな筆致とマッチした素敵なものが多いのだけど今回の装丁はかなり好きだ。
おそらく凪良先生の作風と児童書を多く出版しているポプラ社さんとの相性が良いような気がする。

今回はマンション屋上にある縁切り神社に訪れる人たちを描いた短編集。同じ設定でそれぞれの人物についての作品が収録されている。
もう何度読んでも凪良ゆう先生の作品は本当に大好きで、私にとって優しくて読んでいると泣いてしまう。
縁切り神社に訪れる人たちはいわゆる「世間体」という尺度で測れば、そこから外れた人たちだ。
親から、会社から、恋人から、友人から、「世間体」という尺度で測られ、そこから外れていることを糾弾される。
「世間体」という長さで裁断され、粉々に摩耗した心を抱える人たちが出てくるのだ。
この『わたしの美しい庭』では「世間体」を明確に定義づけている箇所がある。

自分の陣地が一番広くて、たくさん人もいて、世界の中心だと思懐疑的っていたり、そこからはみ出す人たちのことを変な人だと決めつける人たち

『わたしの美しい庭』p19

この「世間体」に絡め取られた人たちが自分たちなりに救いを見出して、生きづらさを抱えながらも以前よりは少しだけそんな自分を大切に想いつつ生きていく。
凪良ゆう先生の描く物語はどこまでいっても、『人生は、心は、その人だけのもの』というメッセージを発している。この『わたしの美しい庭』でも明確に物語の中に綴られている。

「間違ってない。百音の感情は百音だけのものだ。誰かにこう思いなさいと言われたら、まずはその人を疑ったほうがいい。どんなに素晴らしい主義主張も人の心を縛る権利はない」

『わたしの美しい庭』p269

自分も世の中で大多数を占める主張や主義に対して懐疑的であることが多いし迎合していない。
そういう人たちがそういった自分を変えることなく生きていく姿を凪良先生は書いてくれるのだ。登場人物たちが抱えたものを無くしたり、それが気にならないような人間に変わるわけではない。
ただ抱えているものの重さがほんの少しだけ軽くなりながらも、それを抱えて生きていくという着地をするところが大好きだ。
だって抱えているものがすぐになくなったりなんて、しないでしょ?


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