「私たちはなぜ学ぶのか?」(1)ー自分に見えないことがあると知ること
ー学ぶことの意義はたくさんありますが何より「自分に見えないことがあると知ること」だと思います。ネットはアルゴリズムに左右されているので、自分が思っていることしか出てきません。アンテナを張って学ばないと、「自分がこう思いたい」情報しか手に入らず、世界観が狭くなってしまう。違う意見を持っている人が見えなくなると、許容度がどんどんなくなっていきます。普段は行かないところに行ったり、外の世界に出て他者の意見に触れたりすると、人生が広がります。(2022年7月6日 朝日新聞 「私たちはなぜ学ぶのか」上田洋子氏の言葉)
「自分の心の升を大きくするために、哲学の本を読みなさい。升がより大きければ、より多くのものがすくえます。小さな升のままでは、すくいきれないもの、こぼれ落ちてしまうものがある」(この言葉は20年ほど前、社会人入試で入った大学院の担当教授に言われた言葉だ。日本の戦後賠償とODAについての修論を書くつもりだった私には、時間がないのに何でそんな回り道を、と思ったものだ。)
だから、上田洋子氏のこの言葉を読んだ時、あの時の師の言葉が蘇った。そうなのだ。自分の心の器を大きく豊かにしておかないと、見えるものも見えなくなるのだ。見たいものだけを見て満足していると、現実の本当の姿を見失うばかりか、見えていない自分にも気づかなくなる。
私たちの日常感覚や意識は、移ろいやすく、容易にかえられてしまうことは歴史が証明済だ。情報統制された第二次世界大戦下の日本国民の意識、昨今では他国を侵略してもそのことを侵略と感じていないどこかの国民、そしてその侵略のニュースも時間の経過と共にメディアでほとんど取り上げなくなったり、と枚挙にいとまがない。
すでにいろいろなことに気づかなくなっているかもしれない。私たちが意思を持って何かを知ろうとしない限りその状態は続いていくのだろう。この辺に学ぶことの意味がありそうだ。
心を豊かにするために「知識より知性を」と言った文化人類学者の今福龍太氏の言葉にも通じるものがありそうだ。「知」は、我々の社会を創造していく真の力であるが、その時の「知」とは「知識」(knowledge)ではなく、「知性」(intelligence)であるはずだと。そして今福氏はその知性は文学から得られるものだと言っている。(2022年6月12日付 朝日新聞「いま、『知識』ではなく『知性を』)
高校教育の実用的な教育内容へのシフトもさることながら、日本の大学教育の傾向も実利的知識の習得にシフトし、大学が専門学校化していると感じる。私の時代にはまだ「一般教養」という科目があって、かなりのウエイトを占めていたが、今でもあるのだろうか。
アメリカにはこの「一般教養」”Liberal Arts”を学ぶ大学が多数ある。どちらかと言うと小規模校で、多くは古い歴史を持ち(リンカーン大統領が演説を行った大学もある)、私立校で寄宿舎完備である(私の3人の娘はこのような大学で学んだ。貧しいInternational studentsを経済的に支援してくれて、アメリカの懐の深さを感じた。今でも感謝している)そして、どの大学も最寄り飛行場から車で2〜3時間の田舎町にあって、本当に勉強しかすることがない環境である。
初めの2年ぐらいは、歴史や哲学や宗教などいわゆる教養を学ぶらしい。10数人ぐらいのクラスだと休むと先生から電話が来るそうだ。先生もキャンパス内に住んでいるので夜まで授業を行うことがあったり、図書館も夜中まで開いていて居心地がいいそうだ。後の2年間で自分の専門を決めるようだ。長女と次女はその後大きな大学の大学院に進んだ。
大学の4年間はみっちり勉強に明け暮れる。アルバイトは週18時間以下(娘の大学の場合)それもキャンパス内でと決められていた。日本のように3年次に就活で追われて、勉強ができないなどということはない。就活はあくまで卒業してから行うことである。日本の大学と企業が密接につながっている社会構造が、実利的な知識の習得に拍車をかける。人生のたった4年間なのに純粋に教養を学び、自分を見つめられる貴重な時間が奪われてしまっている。
日本では大学院卒は大卒より就職が不利というのもこの構造によるものだろう。実利を優先して追い求める日本社会の特徴だ。欧米と比較しても大学院以上の学生数が少ない。この社会構造・状況が学び続けたいという気持ちを削いでしまうのだろう。
欧米では、Ph.D 博士号を取得して初めて研究者としてスタートラインに立てるという考えらしく、それ以前の学生は未熟者として手取り足取り教えなければならないと考えられているようだ。だから学生は未熟者で終わらず、研究者としての資格を得るために学び続ける。日本の博士号が研究の集大成として与えられるのとはだいぶ違う。博士号を取得してやっと研究の途に着くのである。長女は大学院に進み博士号を取得した。その後のポスドク(Postdoctoral Reseacher)の期間も含めて、親からの経済的援助は一切なかった。機会均等の国には、学びたい人が学び続けられる仕組みがあるのだ(Ph.Dプログラムと言っただろうか?)
閑話休題。前記「違う意見を持っている人が見えなくなると、許容度がどんどんなくなっていきます」は、ブレイディみかこ氏著「他者の靴をはく」で語られているエンパシーEmpathyと通じるものがある。他者の感情や経験を理解する能力。それは自分とは意見や立場の違う人、もっと言えば嫌いな人をも理解できる能力のことだ。Sympathy =同じ意見や関心を持っている人への感情、共感とは異なるものだ。日本語にはこのEmpathy にあたる語彙がないそうだ。他者を理解する能力だから学び、身につけることができるはずだ。
だから私たちは学び考え続けなければいけないのだろう。自分と他者、そして今いる世界をよりよく理解する能力を身につけるために。何が「自由」で、何が「民主主義」で、何が「平等」なのか、のように問われると答えに窮することについて、学び、考え続けないといけない。そうすることで、それらを守ることにもつながるから。学び、考えることをやめてしまったら、あの暗い時代に戻ってしまうかもしれないから。