教育とは日々の暮らしの中で手渡されるのだと実感した日−2023年1月1日
アメリカはまだ大晦日。年越しそばを食べているのは、長女の家族(下の2枚)と次女の家族の食卓(上の写真)。
長女のうちは、うどん。
こちらは次女のうちの食卓
年越しはお蕎麦を食べなさいと教えたわけではないけど、長いマレーシア滞在の後、日本に戻って家族5人で過ごした短い生活の中で娘たちが感じ取っていたアイディアなのだと思う。
マレーシアのインターナショナル・スクールにいた時、「子育てで大切なのは、良い教育と栄養のある食事」とアメリカ人のママとよく話した。
日本に戻った時、迷うことなくアメリカン・スクールを選んだ。自由とか人権とか民主主義とは何たるかが言えなくても、日本の学校にある目に見えない抑圧感(hidden curriculum 隠れたカリキュラム?)のない学校で、開放的で自由な空気を肌で感じて育って欲しかったから。
私にとって「良い教育」とは、アカデミックなレベルの高さではない。だから日本のレベルの高い私立も近所の公立も私にとっては全く同じことだった。
当然教育貧乏に苦しんだ。食事はせっせと作った。それは、「栄養のある食事」を心がける賢母だったからではなく、5人分の外食とかなど論外だったからだ。仕事から戻って大急ぎで作るのだから大したものは作れない。ミートソース、カレー、グラタンは定番だった。餃子はみんなで作った。
大晦日とお正月もそれなりに準備した。こういうことは夫が好きだったから。
娘たちが家を出て行き、それぞれアメリカ人と結婚して子供が生まれた。どういう訳か、彼女たちは自分の子供たちの名前には全員日本の名前を選んだ。日本国籍も留保している。理由は聞いたことはないけど…。
私はことさらに日本人のアイデンティティーを強調したことはない。自分の居場所で生きていければそれで十分だと思っているから。
娘たちの食卓のメニューには、私が作っていたものが多く含まれている。4人の子持ちの長女は餃子を80個作って冷凍するそうだ。フルタイムで働くママは超忙しい。3人を小学校のスクールバスに乗せ、1人を保育園に送る。
明日はお正月だから、次女はおせちを準備したそうだ。日系のスーパーで購入し、煮物は自分で作るとか。
今回送られてきた年越しのうどんと蕎麦の写真を見て、しみじみ思う。
教育とは教え導くものではなく、その子供が親と暮らした日々の生活の中から、何かを感じ取り、自分の心の中で育てて行くことなのではないか、と。
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