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毒親から逃げられない話 小学校編②

私の親は本当に毒親なのかな、って思うこともあるけれど、私にとって毒になっていることは事実だから自信を持って書いていきたい。
暴力を振るわない、乱暴な言葉遣いをしない、お金がないわけじゃない。
でも正論のようなものを振りかざして私を支配してきた母なのだから。

初めましての方は以下のnoteをまずお読みください。

https://note.com/amiko_m/n/naad06cba63b8


(前回↓)

https://note.com/amiko_m/n/n62b268d4694f


今回は小学校時代についての二回め。
昨日に引き続き「必要なことを教えてくれない・必要なものを与えてくれない」母について挙げていこう。

⑷ サザエさん事件

我が家はテレビを観られないのは前回話した通りである。
しかし小学校に上がると、観ても良い番組が二つできた。
大河ドラマと『世界ふしぎ発見!』である。謎チョイス……
私にとって芸能人はこの二つの番組に出てくる人だけであった。

二年生のある日、流行歌の歌詞が配られ、皆で歌う時間があった。
一曲ずつ先生がお手本でまず歌い、続いて皆で歌う段取りであったから、歌を知らない私でもなんとかついていくことができた。
リストには『青春アミーゴ』や大塚愛の『さくらんぼ』に混ざって、サザエさんの歌(お魚くわえたどら猫〜のやつ)があった。

サザエさんの歌の順番になった時、先生は「この歌はみんな知っているでしょうから、最初からみんなで歌いましょう」と言って、音楽を流した。
私には衝撃的だった。
みんな知っていて当たり前の曲なのに、私は全く知らないんだ。
世間の常識を知らなかったことにショックを受けて、知らないということを先生に言うこともできなかった。

恥ずかしくて悔しくて帰宅後に親に訴えた。
すると母は渋々『サザエさん』の視聴を許可してくれた。
『サザエさん』はぎりぎり許せるアニメだったらしい。
(私の母は大のアニメ嫌いで、『ちびまる子ちゃん』『ドラえもん』『名探偵コナン』などは許してもらうことはできなかった)

⑸ 洗顔について

六年生のある日、好きな男の子が他の男子に囃し立てられていた。
「〇〇、今日朝顔洗ってないんだって〜!」
「洗ったよ!」
そんなことを大声で叫んでいた。

私はあれ?と思った。
それまで一回も顔を洗ったことがなかったからだ。
みんな、毎朝顔を洗っているの?

顔は毎朝洗うものなのかを母に聞いてみた。
「えっそんなことも知らないの? 毎朝顔を洗うのは常識よ」

その頃の私はそんなこと知らなかった。
誰も教えてはくれなかったし、私はプールで泳げず、水に顔をつけることもできない子どもだったから、わざわざやってみようとも思わない。
顔はニキビだらけで油分の多い肌がコンプレックスだったため、頑張って顔を洗う練習をした。
早く母が洗顔を教えてくれていれば、今の肌も違ったかもしれない。

(ちなみに洗顔後に化粧水や乳液をつけることを教えてくれたのは、大学生の時に付き合っていた彼女である)


⑹ 塾

三年生くらいになると、周りの子たちが塾に通いだした。
私の住んでいた地域は、子どものいる家庭が多かったため、必然的に様々な塾が進出していた。

話が面白く人気のあった子が通っていたのは駅前のE塾である。
その子の宣伝によって、E塾に通う児童が増えていた。
昨日は塾であんなことがあった、こんなことがあったとみんな楽しそうに話をしていた。
私もE塾に行ってみたいと母に言ってみた。
すると母は「そうね、そろそろ塾に通いだしてもいい頃ね」と言った。

その時私は「塾に通うこと」が何を指しているのか知らなかった。

母はE塾はダメだと言った。
「E塾は先生がだめだから」「E塾は遊びみたいなものだから」

結局私が通うことになったのは、電車で30分のところにあるY塾であった。
しかも、週に何度も授業を受けるコースではなく、平日は家で勉強し土日に試験だけ受けるコースだった。
共に高め合う友人もおらず、一人でやるにしても限界があった。

一番辛かったのは、試験の結果が返ってくるたびに母に怒鳴られることだった。
母は100点以外は価値がないと考える人間だったのだ。
「なぜ満点じゃないのか」「なぜこんなこともわからないのか」「いくら払っていると思っているのか」
そんなことを二、三時間ずっと大声で叫んでいた。
私は恐怖と申し訳なさで泣くしかなかった。

そもそも私は塾がどういう目的で通うのかわかっていなかったし、ただ楽しいところと思っていたのだ。
それがどうしてこんなことになってしまったのか、塾についての親の説明不足を感じていた。

5年生になっても成績が上がらず、母は塾を増やす決定をした。
しかしそれはE塾ではなく、家から歩いて10分ほどのS塾だった。

S塾は合格者実績があり、先生も良質だというのが母の言葉だった。

けれども私にとっては地獄だった。
窓も時計もない教室にぎゅうぎゅう詰めになり、科目の間も休憩時間はなし。
毎回小テストがあり、その結果によってクラスも席順も変動する。
厳しい競争社会だった。

宿題も大量に出て、何をどうすれば良いのかわからない。
小学校の休み時間にやっても間に合わなかった。
成績もあまり上がらず、Y塾の試験に加えてS塾の試験も受けるようになったため、怒鳴られる回数も増えていった。

S塾では少し友人もできたが、3年生の頃にあの子が言っていた生活とは程遠かった。
(学年が違うから単純比較はできないけれども、S塾組は中学受験組の中でも顔が死んでる方だった)

小学校で所属していたグループのうち、受験をするのは私だけで、すれ違いも増えていく。
仕方のないことではあるが、私抜きで遊んでいるのは話の端々から読み取れて、疎外感でいっぱいだった。
私の家の前は公園になっていて、遊んでいる子どもたちの声が聞こえるたびに、心がキュッとなった。

母に遊びたいと漏らすと「春になって受験が終わったら好きなだけみんなと遊べるよ」と言われた。
私はその言葉だけを希望にして頑張り、なんとか1日目の受験校に合格することができた。

さあ遊ぶぞ、と友人たちを誘うと、塾があるから無理と断られてしまった。
公立組は高校受験のための塾が小6の年明けからスタートしていたのだった。
悲しくて母に言うと、「そんなこと言ったかしら。まあ高校受験の準備は今から始めるものよね」とそっけなく突き放された。

母の言うことはその時々で変わるし、信用できものじゃないとよくわかった。
けれども「こうは言っているけれど最後には裏切られるだろう」と親に向かって諦念を抱くことは困難だ。
中学高校に上がっても、ずっと信じては裏切られるを繰り返すこととなる。


こう思い返すと、小学校時代は母に色々気持ちを伝えようと勇気を出していたのだなと思う。でもそれはことごとく跳ね返されていた。


母が怒鳴ることについて度々触れているけれど、お叱りタイム中の私の心情やその時の父の様子についてはまた後日。
それではまた。

(追記)
③投稿しました。核心に近づいていく。


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